~ 2021年度の学び ~

 

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イエス、すべての人の養い」           2021年9月5日 瑞浪伝道所

    ルカ福音書9章10~17節

 

  聖書を学ぶ、ということは、人としての行き方を考えるために、じつに重要なことであると私たちは信じている。そして、人として生きる、ということは決して自分ひとりが生きるのではなく、誰か他の人と共に生きることである。神の前に生きること、そして、誰か自分以外の人と共に生きる。神に向かって生きることであり、神から生きることである。これは人間を支える縦の関係である。縦の関係、神との平和。それが無ければ、人生の目当て、人生の方向を見失ってしまう。生きることの、言葉に尽くせない苦労や嘆きがあっても、神との健やかな関係があれば、耐えてゆくことができる。そして、同時に大切なことは、人々との繋がりである。教会は、世の中では非常に小さな集まりである。しかし、幼い子どもも居れば、高齢の方々もおられる。女性も男性もいる。育ってきた環境もそれぞれ随分ちがう。さまざまな違った生活背景をもっている人々である。この小さな社会のなかで、私たちは実に多くのことを学ぶ。

  教会というこの集いは、現実にはさまざまな弱さや過ちを抱えている。清く穢れのない集団というわけではない。それだからこそ、教会に集い、教会に生きることによって、私たちは多くのことを学ぶ。互いに赦すことを学びあう。我慢すること、忍ぶことを経験する。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くことを学ぶ。もし教会が、完全に清い集団、まったく欠点のない集まりであるとすれば、私はそういう集いの中では、あまり学びあうことがないと思う。何よりも、そんな綺麗な清い集団の中に、安心して生きてゆくことはできない。

  いろいろな欠点や、我慢しなければならないことも沢山あるはずの教会。その教会に生きることで、どうしてさまざまなことを学べるのか。教会は、勿論礼拝のための集いであるが、しかし礼拝だけではない。さまざまな人間関係も同時に学べる。教会は人生の教室である。意味深い優れた教室である。なぜそうなのか。学校でもなく、会社でもなく、いろいろなサークル活動でもない。それぞれ大切なものであるが、教会は、それらとは違うものを、私たちに教えてくれる。何故か? 教会というものを作った方が、キリスト自身であるからだと思う。イエスという方の心をここで学ぶ。キリストという教師に出会う。

 

  キリストの心を学ぶ。その中心には、今朝の聖書にも描かれている弟子たちがいる。弟子たちは、伝道の旅を終えて戻ってきたばかりである。ガリラヤという地方を伝道したのである。伝道の旅が終わるころ、そのガリラヤの領主ヘロデが、イエスに会ってみたい、といい始めた(9章9節)。イエスに会いたい。これは伝道の一人の実りである。伝道の旅を終えて、弟子たちは疲れている。ただ疲れただけではない。伝道の恵み、伝道の実り。それを語り合う。そういう目的もあったかも知れない。とにかく主イエスは、弟子たちだけを連れて、ベトサイダという町に退かれた。退くという言葉は、避けるという言葉である。賑やかな場所を求めたのではない。町外れの静かな場所。村からも里からも離れた、野原か山間僻地ような場所である(12節)。

  人を避けてしばらく弟子たちを休ませよう。そういう心積もりであったが、群集は、イエスの後を追ってきた。イエスは、その人々を「迎えた」とある。拒まなかった。人を避けようとしたはずだけれども、求めてくる人を避けなかった。「迎える」心。これが、主イエスの伝道の心である。この大勢の人々は、なぜイエスのもとに押し寄せるのか。聖書の続き具合から見ると、弟子たちが伝道して、神の国の恵みを語った。つまり、弟子たちの伝道によって、神の国の恵みを経験した人々が、結局、最後に求めたのは、イエスのもとに行きたいということである。神の国というのは、結局、キリストのもとに行くことである。弟子たちの伝道は、その意味で、根本的に成功している。人々をキリストへと導く。キリストへと招く。それが伝道である。

 

  イエスは、ここでもまず神の国について語り、そして、治療の必要な人々を癒される。教えることと癒すこと。病む人の体や心に、神さまが触れてくださる。神は、病んでいる私たち、苦しみ傷ついている私たちと、繋がってくださる。それが、聖書の福音である。しかし、今日の所では、伝道の働きにもう一つのことが加えられていると思う。教えること、癒すこと、そして3つ目が「養う」こと。弟子たちは、もちろん養うということを、一度も経験していない。伝道の旅を始めるときに、主イエスは「袋もパンも持つな」と教えた。自分のパンさえ持たない。どうして人を養うことなど出来るだろうか。伝道ということは奥が深い。伝道とは何か。それは神の国を伝えること、キリストを紹介すること。まさにそのことに尽きる。しかし、神の国というのは、教えること、癒すこと、そして「養う」ということが加わる。それがまだ、弟子たちには分からない。私たちにもよく分からない部分ではないか。

  渡辺善太という人が、『わかってわからないキリスト教』という本を残している。銀座教会の牧師、そして青山学院という大学でも聖書を教えた。特に旧約聖書の学者として非常に優れた人であったが、説教者としても有名であった。渡辺先生によると、キリスト教が分かるということには、3つの段階がある。第一は「分かった」という段階。第二は「分かったが分からない」という段階。そして第三に「分かって、分かった」。一度は分かる。それで洗礼を受ける。しかし、その後で「分かったが、分からない」。そういう段階がある。信仰が分からないということは、躓いているということ。躓くというのは辛い。躓けば怪我をすることがある。しかし、とにかく信仰には、分かって分からない、という微妙なことがある。そう言われてみると、私たちの誰もが同じような経験をしている。ある意味で、信仰の人生は、そういうことの繰り返しである。

  イエス・キリストによって養われた、この5000人の人々。この人たちも、キリストに養われて満腹したときに、神の恵みが分かった。キリストの力や素晴らしさが分かった。しかし、ヨハネ福音書などをみると、この群集の中から、イエス・キリストを自分たちの王様にしよう、という声が上がった。つまり、5000人の人々を、わずか5つのパン、2匹の魚で養って満腹させる。そういう人がいれば、世の中何も怖いものはない。経済問題が解決すれば、神の国はもうそこに来ていることになる。これが、パンを食べて満腹した人々の大きな誤解であった。分かったようだが、結局、分からなくなった。

 

  イエス・キリストの養い。それは、単にお腹が一杯になるという養いのことではない。もちろん、人間が飢えたままでよいというのではない。人が飢えたままで放置されてはならない。確かにそれが神さまの御心である。だからこそ、5000人の人々を実際に満腹するまで食べさせるという、驚くべき奇跡をなさったのである。

  イエス・キリストの養い。その一番大切な点は、単なる満腹ではいない。イエスの養いは、人々を父なる神様と繋いであげることである。神なしの人生は空虚であること。神さまが、弱く、崩れそうな私たちに、繋がってくださること。この点では、イエス・キリストの養いは、何よりも、ご自分の命を私たちに与えて下さり、そして、天からのまことのパンを食べなさい、と私たちを招かれる。教会交わりの中心に、聖餐という食卓がある。教会では、聖餐という食事の中で、このイエス・キリストの養いを味わう。

  今朝の聖書で、人々を50人ほどの組にして座らせて、キリストが祈ってくださった。5つのパンを取り、2匹の魚をとり、「賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群集に配らせた」。この情景は、いま教会が行なっている聖餐の食事と寸分たがわない。後の教会は、自分たちが聖餐の食事を守るたびに、キリストが荒れ野で、5000人の人々を養われたあの素晴らしい情景を思い出した。

  教会が誕生して間もなく、新約聖書の言葉が、あちこちの教会で書かれるようになる。そして、すべての新約聖書が書き終えられたのが紀元95年頃。それと入れ替わるように、教会の新しい指導者たちが、いろいろな文書を書く時代が始まる。ペトロやパウロなど使徒の時代が終わり、そのすぐ後に、教会を指導した人々を「使徒(後)教父」という。新約聖書後のいろいろな書物の中に『12使徒の教訓』というものがある。そこには、紀元100年頃の、教会の非常に古い習慣が記録されている。聖餐式に読まれた祈りの言葉。「このパンが山々の上にまき散らされていたのが集められて一つとなるように、あなたの教会が地の果てからあなたの御国へと集められますように」(9節)。パンが山々の上にまき散らされ、そしてまた集められた。これは、キリストが5000人の人々を養われた情景を思い出している。弟子たちが残ったパンの屑を集めてみると、12の籠に一杯であった。神の恵みは、溢れている。この次に、人々を養うための準備も出来ている。

  『12使徒の教訓』という書物は、パンの屑を集めたあの情景を、世界の隅々から、多くの神の民が再び集められる、という神の約束だと読んでいる。これも、聖書の一つの重要な読み方である。聖餐の食事の後に、こう祈りなさい、という。「主よ。あなたの教会を覚え、全ての悪から解放し、あなたの愛によって完全なものとしてください。教会をきよめ、四方から、あなたの御国へと集めてください」。弟子たちが集めたパンの籠が、一杯になった。そのように、神の教会が清くなり、完成され、そして世界の隅々から集められますよう。そして続ける、「恵みが来ますように。この世が過ぎ去りますように」。この世が過ぎ去りますように。神への集中の祈りである。この世で生きることの苦しみと困難を、味わっているのである。この2000年前の教会の祈りは鋭い問いかけである。私たちへの挑戦である。「この世が過ぎ去りますように」。これは諦めではない、実に前向きの祈り。神の国を待ち望む、究極の祈り。神の国への憧れを祈っている。

  私たちも、イエス・キリストに養ってもらう。キリストから命の糧を受けている。礼拝を守り、聖書を共に学び、讃美歌を歌う。その一つ一つが、キリストの養いである。天からの命のパンを、礼拝で受け取っている。そうであれば、私たちがどれほど地の果てにいても、やがて神の国が完成するときには、地の隅々から集められて、神の国の中へと受け入れられる。私たちが、日曜日ごとにこうして、集められて礼拝する。それは、やがて天国で私たちがもう一度、そして永遠に一つにされるための、予習をしている。散らされた者が、恵みによって集められる。ちょうど私たち自身が、12の籠に集められたパン屑のように、神のもとへと集められる。天国の「予習」というのは、誤解を生むかも知れない。すでに本番は始まっている。この礼拝の中で、神の国は始まっている。しかし、神の国の完成よりも、遥か手前のところで、私たちは生きている。地上の教会は、激しい苦難や混乱があり、嘆きと痛みがある。だからこそ、昔の教会の人々は、「恵みが来ますように。この世が過ぎ去りますように」。そういう驚くべき祈りを祈ったのである。

  この一切れのパンを、私たちに与えるために、キリストは、自分の命を捧げてくださった。このパンを食べる者は生きる。そう約束して下さった。イエス・キリストという命のパン。これを食べる者は、決して失われることがない。この世に生きるということは、いろいろな場所、いろいろな状態の中へ、散らされ、放り出されている、そういう不安を拭えない。実に心細く、安定を欠いたまま、耐えて行かねばならない。教会に生きる私たちも、一歩、外に出れば「世」という荒波に投げ出される。だから祈るのである。「この世が過ぎ去りますように」。これは、諦めでもなく、投げやりでもない。真実な祈りである。主の祈りで「御国をきたらせ給え」と祈る。それを裏返して激しく言い換えると、「この世が過ぎ去りますように」。神さまの中へ、本当に逃れたいという痛切な願いである。この世というものに、妨げられてたくない。邪魔されたくない。イエス・キリストという命のパンに、まっすぐ、まっしぐらに辿り着きたい。その願いをこめて聖餐の食卓に与りたい。