第82回「イエスに学ぶ謙遜」                    2022年9月25日 瑞浪伝道所礼拝

   ルカ福音書14章7~14節                         担当 小野静雄

 

私たちがこうして神を礼拝することができる。聖書の言葉をひも解いて、新しい一週間を生きることができる。このように、日曜日の生活が支えられているのは、何よりも、神が私たちを招いておられるからである。礼拝が、礼拝として成り立つのは、神の招きによる。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。これが神による招きである。そして、この招きは、日曜日の生活だけではない。私たちの生活、人生のすべてに届いてくる。

今朝の聖書の主題は、「招待」ということである。招くことであり、招かれることである。キリストはここで、人が生きること、その深い意味を、招待という点から教えておられる。生きるということは、招かれていることである。そして、生きるとは招くことでもある。このように「招待」という点から、人生の意味を考える。人生に「招待」という光を当てて考える。そこから何が見えてくるだろうか。それが今朝の聖書の主題である。いずれにしても、キリストが人間を見ておられる、その見方は、非常に独自なものである。招かれていること、招いていること。そこから人間の問題、生きるということの意味を考えようとしておられる。

 

8節からの部分は、招かれた時の心得を語る。そして12節からは、人を招くときの心得を語る。ひとまずそのように読むことができる。招き、招かれる。いわば人との交際・社交である。婚宴に招待されたときどうするか。上席を選ばないで末席に行きなさい。自分で上席を選んで坐っていると、とんでもない恥をかくことになる。“あなたのお席はここではない。ここに坐るに相応しい人は別におられる。あなたはもっと下の方へ行ってください”。反対に、自分で進んで末席に坐っていれば、招いてくれた人が来て、“あなたの席はもっと上に設けてあります。どうぞそちらへお移り下さい”。こうして、集まった人たちの前で、あなたは面目を施すことになるだろう。

招かれたとき、自分はどこに坐るべきか。私たちの習慣であれば、改まって婚礼の席(披露宴)に招かれたら、たいてい席次というものが決まっている。自分の名前の書かれた札を見つけてそこに坐る。決して迷うことはない。しかし自分がどこに坐るべきか、それが指定されていない。そこで迷いが生まれる。キリストが、この譬えを語られたのは、自分と一緒に招かれている人々が、それとなく上席を選んでいる。その様子に気付かれた。もちろん、自分が一番上の席に坐ろうと決めているのではない。自分は、誰それよりも上で、誰それよりも下。その上下の順序を見極めなければならない。そこに細かな神経を使っている。そして、このあたりと思いながらも、なお少しでも上の席を狙いたい。そういう、無言の争いが繰り広げられている様子を、キリストは見ておられる。

自分を上の席へと押し上げたい。しかし、決して最上の席を狙えると思ってはいない。そうすると坐っては見たものの、その席で安らぎを得ているのではない。ここでよい、という安らかな場所を持たない。そこから不安が生まれる。自分の居場所を知らないところから生まれる不安である。そして不安なままで、なお自分の席次を上へ上へ、押し上げようとしている。これは、安息日の午後のことである。安息日に、自分を人よりも上に押し上げなければならない。安息日の心から最も遠いことである。とても安息どころではない。安息日を台無しにしている。自分のために、上席を選ばなければならない。自分で自分の席を決めなければならない。そこから生まれる争いと不安。これは結局、私たちがぶつかっている人生そのものである。

10節で「面目を施す」と言われている。面目という言葉は、栄光を与える、栄誉を与えるという意味の言葉である。人に栄誉を与えるのは、人間の仕事ではない。誰の前に面目を施すか。人の前で自分の席次を上げること、そればかりを考えていてよいか。人の前より神の前。上辺で人生を見てはいけない。最も深く人生の真実を見ておられる神の前で、私たちはどのように生きているか。それが問題である。

そうなると、ここで言われる「招待」という意味も、考えなければならない。招いているのは、友達とか親戚ということではない。招いているのは神である。人に本当の栄誉を与えることのできる方。人を真実に高めることができる方。そういう方が、私たちを招いておられる。人は、誰でも、神からの招待を受けて、それぞれの人生という場所に立たされている。「生きている」ということは、すでに神の招待を受けているということである。神の招きを受けている人生。何よりもそれは、今日が「安息日」であるということに深く関わっている。今朝の聖書も、安息日の午後の出来事である。私たちも今、日曜日の礼拝に招かれている。安息日、日曜日。それは、私たちの世界が、神によって招かれている世界であることを示している。神の招きが、現実に届いている。そういう世界の中で、私たちは生かされている。

そこには、キリストがおられる。キリストは、この安息日の午後、一人の人の病を癒されたばかりである(14章2節)。水腫という重い病気で苦しむ人を、キリストは癒してくださった。水腫の人を、イエスはその腕に抱いて、そして重い病の苦しみから自由にしてくださった。つまり、人生の回復、命の回復という恵みが始まっている。イエス・キリストが触れてくださる。キリストの暖かい手が、私たちにも触れてくださる。そこに神の恵み、神の愛が、人生を包むということが始まる。今も、キリストは私たちに触れてくださる。私たちを包んでくださる。神の言葉、恵みの言葉、真実と愛に満ちた言葉で、私たちに触れてくださる。生きるということは、良い言葉によって囲まれることである。命の言葉に触れてもらうこと。愛の言葉で包まれること。それが、私たちの命に喜びと回復をもたらす。

 

今朝の聖書の言葉は、私たちの人生が、どのように神の招きを受けているかを、深い奥行きで物語っている。奥行き。つまり近い部分と遠くにある部分。いわば人生という時間を、遠近法で描いている。一番近いところには、安息日がある。日曜日がある。神の招きが、安息日に私たちに届く。そこにキリストがおられて、命の回復が始まっている。命の言葉で包まれる。命の言葉が私たちを招く。そういう招きを受けるのが、安息日の恵みである。それが一番手前にある恵み。そして一番奥深いところには、何があるか。14節に「正しい者たちが復活するとき」とある。復活のとき。これが、一番深いところで、私たちを待ち受けている。復活は永遠の命への招きである。安息の完成と言ってもよい。

アウグスティーヌスという人は、この最後の復活の恵みを、「終わりなき終わり」と表現した。『神の国』という大きな書物の最後に、私たちが招かれる永遠の安息について記している。その安息は、「いわば主の永遠の第8日である。それは、霊のみでなく身体の永遠の安息を約束するキリストの復活によって聖別された日である。そのとき、わたしたちは休み、そして見るであろう。わたしたちは見て、そして愛するであろう。わたしたちは愛し、そして褒め称えるであろう。これこそ終わりなき終わりに、わたしたちの目にすることである。なぜならば、終わることのない御国へ到達すること以外に、いったい何がわたしたちの目標であろうか」。キリストの復活。それは私たちの永遠の安息を先取りしている。本当の休息が私たちを待っている。神を見ること、神を愛すること、そして神を賛美することが、私たちを待っている。だから、私たちの日曜日は、復活の命、永遠の命への、無くてならない通路である。私たちを待っているのは、終わりの無い終わり。永遠の安息、復活の世界である。そこに人生の完成がある。そこに向けて、私たちは招かれている。

このような招きを受けている私たち。安息と、復活の命へと招かれている私たち。そうであれば、私たちの地上の人生は、はっきりと一つの印を持つべきである。へりくだるという印である。謙遜という印である。自分の交際相手に、誰を選ぶか。どのような人々に心を開くべきか。一方には、「友人、兄弟、親類、近所の金持ち」という人々がいる。しかし、もう一方には「貧しい人、身体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」がいる。私たちの交際範囲が、どちらに傾いているか。ここでも、キリストは私たちの心を深く見抜いておられる。主は、世の中にこういう2種類の人々がいる、と言っているのではない。すべての人を、このような2つの種類に分けることなどできない。そうではなくて、あなたの心の中に、こういう2つの人間の種類が、2つのグループが作られている。そう言っておられる。

私たちの心は、自分の交際できる人と、できない人を、二つに区分する。一方には、気楽にお付き合いできそうな人々。他方には、なるべく付き合いたくない人々。私たちの心には、このような壁が出来上がっている。この壁の中に迎えることのできる人と、迎えたくない人。二つの種類の人間を、選別している。人を色眼鏡で見ている。あなたの心に造られた壁。あなたの目が見ている色眼鏡。それでよいかと、キリストは問うておられる。

キリストの譬えの、あの放蕩息子のことを考えてみればよい。父親に背いて、家を飛び出した人である。自分の力で生きて見せる。そういって見栄を切って家を飛び出した。しかし、放蕩息子の人生は、見るも無残な結果になった。誰も相手にしてくれない。誰も助けてはくれない。誰からも愛されることもない。全ての人が、この青年の前に壁を造っている。豚でさえ相手にしてくれない。そこまで落ちている。それが人間である。それが私である。そういう私を、神様は受け入れてくださった。このような私たちを、神は改めて招いておられる。本来、決して招かれるはずのない人間が、招かれている。こうして迎えられた私たち自身は、胸をそらして、ふんぞり返っているわけにはいかない。自分を誇ることも、自分を高くすることもできない。

 

11節「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。キリスト自身が、そのように自分を低くする道を進まれた。十字架の苦しみにまで進まれた。そして、神はキリストを高く引き上げ、あらゆる名にまさる名を与えられた。そのキリストが言われる。謙遜になりなさい。自分を低くしなさい。誰かを招こうとするとき、注意しなさい。友人、兄弟、親類、近所の金持ち。そういう人との交際は、誰にでもできることである。友人との交際を止めよ、というのではない。兄弟との交わりを止めよと言うのでもない。そういう交わりは、心惹かれる交わりである。恵みがすぐに現れる。

しかし、そのような分かりやすい交際だけで、人生を費やしてはいけない。貧しい人、身体の不自由な人。つまり、弱い人々である。社会の中で、見えにくい人々である。そういう人との交際は、自分が変えられなければ、続けることができない。古いままの自分、高慢な自分、上席ばかりを選んでいる自分では、そのような人々との交わりを続けることはできない。謙遜にされなければ出来ない交際。つまり、悔い改めが必要な交わり。そういう交わりを学ぶべきである。悔い改め。聖書ではメタノイアという。心の方向転換である。心の方向転換をして、心の壁を低くして、人生を生きる。

 

教会という集いにも、同じようなことがある。教会の交わりは、すぐに結果を見るための交わりとは全く違う。「復活するとき」。キリストはそう言われる。復活のとき。最後の完成のとき。永遠に終わりのない安息のとき。そこまで行って初めて、あの人との交わりの意味が分かった。そういう息の長い交わりをしてみよう。この世では、交わりの意味が分からないまま。すぐに効果が見えるような交わりではない交わり。この交わりから、何が生まれるだろうか。その意味と恵みを、ズーッと長く考える。ズーッと長く待ち続ける。そのような関係を大切にする。見えない意味が見えてくるまで長く待ち、ついには復活の日までお預けになるような、人間の交わり。そうした交際を、大切にしよう。キリストはそのように私たちを招く。

キリスト自身、私たちとの交わりを、そのように息長く続けるために、私たちの主となられた。私たちの羊飼いとなられた。キリストが、私たちのような者を招いて、一体なんの得があったか。私などを招待して、いかなる効果があるか。何の効果も、何の得もないような交わりの中に、キリストは来てくださった。それが教会であり、それがキリストの愛である。教会が、どのような人々を招くか。そこでも、キリストの心をどのように生かせるかが問われている。キリストの謙遜が、そのまま生きるような招待を、教会は続けねばならない。結果や効果が、すぐには現れて来ない。しかし、復活の朝には、必ず結果が確かめられる。そのような招き、そのような交際を、まず教会こそ学びたい。キリストの心を心として、低い心になって、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の不自由な人、そのような人が、取り残されないような交わりを、教会が生み出せるように祈りたい。

 

 

---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 第79回「時を惜しんで救いの道を」                  2022年8月28日 瑞浪伝道所礼拝

 

   ルカ福音書13章22~30節(コヘレトの言葉3章1~8節)

 

 

 

今朝の聖書、最後の30節「そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」。これは教会ではよく知られた言葉。信仰の道をゆく人には、後先がある。のんびりうっかりしていると、取り残されてしまう。いや後から来た人が先になるね、などと使われる。特に、今朝の聖書でキリストは、救いのために、あなたの救いを確かにするために、時を惜しみなさいと語っている。

 

旧約聖書には、『コヘレトの言葉』という不思議な書物がある。コヘレトというのは、昔のエルサレムで、豊かな知識人として過ごした人である。しかし、この人は人生の全体をふり返って、苦い悔恨、後悔の思いをかみ締めている。コヘレトというこの書物全体に、この人の人生への後悔の思いが滲み出ている。大切な時を失ったという苦い現実である。私は、正しく時を過ごすことに失敗した。「何事にも時がある」という有名な言葉。「生まれるとき、死ぬ時。植えるとき、植えたものを抜くとき・・・」。人生を教える格言のように用いられることが多い。しかし、この言葉を記したときのコヘレトの心は、複雑である。悲しみと後悔の念に満ちていたのではないか。

 

天の下の出来事には「定められた時がある」という。ここにすでに、時を正しく道いることをしなかった人の悲しみがある。大切な時を、どうかあなたは浪費しないでほしい。そのような切実な気持ちが溢れている。だから、コヘレトの最後の部分で、あの名高い言葉が語られる。「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」(12章1節)。「汝の若き日に汝の造り主を覚えよ」。私たちの人生の造り主。私たちに命と人生の日々を、与えることのできる一人の方がおられる。その方を覚えよ。この方を信ぜよ。今がその時である。与えられた「今」という時を、空しく費やしてはならない。人には、生まれる時があり、死ぬ時がある。初めと終わりがある。その大きな時間の枠組みのなかで、今という時に私たちは何をするか。何よりも、あなたの創造主、私たちに命の日々を与える神に、心を向けることを、今しなさい。時を惜しんで、救いの道を歩もうではないか。それがキリストの呼びかけ、神の招きである。

 

 

 

キリストの前に来て、一人の人がキリストに尋ねる。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」。救いということに、この人は関心がある。決して無関心ではない。しかし、救われる人が少ないか、それとも多いか。はたしてそのように問うことは、どんな意味があるのか。救われる人は少ないのか。もし少ないのであれば、私のようなものは、救いに入ることはできない、と諦めるのだろうか。このような問題の出し方に、どこか他人事のような響きがある。キリストも、そういう他人事のような響きを聞き分けておられるかも知れない。もちろん、救われる人が少ないよりは多いほうがよい。

 

今年は、日本のプロテスタント伝道が始まって、163年になる。宣教開始から160年たって、プロテスタントとカトリックを合わせて、人口の1%に満たない。救われる人が少ない。日本の伝道は、悲しいことに、救われる人が少ないことを証明していることになるのだろうか。確かに、人口の1%しかクリスチャンがいない。それは非常に悲しいことであり、何よりもキリスト教会が真剣にこの事実に向き合うべきである。しかし、1%ということを、何か評論家のように論じて済ませることはできない。それは、今朝キリストの前に現れて、「救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねた人と同じである。キリストは、この人の問いかけに、正面からは答えておられない。

 

 

 

今、救いの戸口は開かれている。それは明らかなことである。だから「狭い戸口から入るように努めなさい」とキリストは言われる。今は戸口が開いている。しかし、やがて入ろうとしても入れない時が来る。戸口が閉ざされた後で、「ご主人様、ここを開けてください」と願う人がいるだろう。しかし、そのようなあなたがたに、この家の主人は言うだろう。「あなたたちがどこのものか知らない」。この言葉は2度、繰りかえされている。「お前たちがどこのものか知らない」。

 

この戸口を守っている主人から、「知らない」と言われては、取り付く島がない。この主人は、なぜあなたたちのことは知らないと言うのか。「どこの者か知らない」。これは「あなたがどこから来たか知らない」という言葉である。あなたはどこから来たのか。方向を、方角を尋ねているのではない。29節では、神の国に入る人々は、東から、西から、南から、北から来る。どこからでも、世界の隅々から、神の国に招かれる。これは方角ではない。人の所属を尋ねる言葉である。あなたは何処に属しているのか。もっと言い換えれば、あなたの「心」はどこにあるのか。あなたは、「救い」ということに、真剣に心を置いているか。神の国に生きること、神の国に入ることに、あなたの心は本当に注意深く、心を開いているか。神の国を見据えて生きているか。そうでなければ、どんなに親しそうに近づいてきても、あなたのことは「知らない」。

 

私たちは、神の国の戸口を守る主人に、私自身のことを知ってもらいたい。心から、救いを求めていることを、何とかわかってもらいたい。26節で、戸口から締め出された人が叫んでいる。「御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、私たちの広場で教えを受けたのです」。訴えている人々は、神の国とのつながりを、私は持っていると思っていた。神の国の主人と、何かの縁を持っていると信じている。その縁故を頼って、扉を叩いているのである。しかし、広場で教えてもらった、一緒に食べたり飲んだりした。そういう社交的なお付き合いは、神の前では通用しない。問題は、広場で教えてもらったかどうかではない。キリストの心に触れる生活、神に祈りを捧げる生活。そこが重要である。

 

その点で、キリストの今朝の言葉には一つの厳しさがある。その具体的な例として、キリストは、「アブラハム、イサク、ヤコブ。そして預言者たち」を挙げている。これらの人々が、神の国に入ってゆく。アブラハムとは誰か。イサクとは誰か。ヤコブとは誰か。これらの人々は、信仰に生きる人として、決して完全な人ではない。完全からは程遠い。さまざまな苦しみと試練の中で、立ち往生した人々である。義人はいない。清い人はいない。信仰の強い人と言えるかも、疑わしい。多くの過ちを犯した普通の人々である。しかし、アブラハム、イサク、ヤコブに共通したことがある。それは、これらの人々が、なりふり構わず、神の国を求めたことである。人生の、目に見える幸福よりも、神の言葉を求めた。神の祝福をひたすら求めた。神の国に突入するために、人生を賭けていた。神の国の門を叩くことに必死であった。

 

 

 

このことをキリストは、「狭い戸口から入るように努めなさい」と教える。「努めなさい」。この言葉は、なかなか深みのある言葉、凄みのある言葉である。ある翻訳では「必死に努めよ」と訳している。英語で、アゴニーという言葉がある。苦しみ、奮闘、悲痛の極みなどという意味をもつ。アゴニーの元になるのが、ここで使われるギリシア語である。神戸の六甲山に登る道に、アゴニー坂というのがある。神戸に住んだ外国人が、六甲山に登るときに、この坂が余りにきついので、アゴニー坂という名前をつけて、今でも山の地図に残っている。わたしも神学校の学生のときに、何度か六甲山に登って、アゴニー坂の厳しさを経験した。汗を流し、激しい息をついて、ようやく登り詰める。そういう苦しい坂道である。

 

努めなさい。それは神の国に入るために、奮闘しなさい。しかし、この努力、この奮闘は、自分の力で神の国に入ることができる、という意味ではない。そうではない。何よりも、この戸口に来ることである。戸を叩くことである。神の国は、私たちの奮闘努力に懸かっているのではない。神の国。その扉を開いてくださるのはキリストである。22節。「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」。町々、村々を巡りながら、教え続けておられた、という表現である。キリスト自身が、いま奮闘して下さっている。神の国に人々を招く。あなたも神の国に入りなさい。あなたも入ろうではないか。そのように必死の努力をキリストが続けておられる。このキリストの努力の前で、「救われる者は少ないか、多いか」そのような暢気なことを、評論家のように言っている暇はない。

 

キリストの努力の先には、エルサレムが待っている。十字架が待っている。しかし、十字架だけではない、復活も待っている。キリストこそ、時を知る救い主である。すべてに時がある。苦しみの時、十字架の時、墓に下る時、復活の時。自分を待っている一つ一つの時を、懸命に見つめながら、エルサレムへの旅を続けて下さった。なぜだろうか。キリストは、神の国の入口を閉ざすために、働いているのではない。求める人々を締め出すために、エルサレムに急がれたのではない。神の国の戸口を開くために、それこそ命を賭けておられる。

 

聖書の数々のところに、キリストが門を開く方であると証言されている。ヨハネ福音書10章9節で、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」。門を開いてくださる。それがキリストの仕事である。ヘブライ人への手紙10章20節、22節「イエスは・・・新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださった」。だから「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」。新しい生きた道、命の道、朽ちることのない救いの道。そういう道をキリストは、わたしたちのために開いて下さった。そのためにキリストは来られた。だから、私たちに求められているのは、「信頼しきって、真心から神に近づく」こと。さらに、ヨハネ黙示録3章8節ではこうある。「見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない」。キリストが「開け」と言われれば、この門は決して閉ざされない。

 

 

 

神の国の入口。この扉を守っているのはキリストである。キリストは、私たちのために、戸を開けてくださる方である。洗礼という恵みの扉は、キリストという門番がいるだけである。東にも開かれている。西にも開かれている。南にも開かれ、北にも開かれている。どこからでも入れる。求められていることは、キリストに学び、キリストに近づくこと、それだけである。「救われる人は少ないのでしょうか」。そのように、ためらったり、怯えたりする必要は少しもない。この扉を開こうと、待ち受けているキリストの愛、キリストの親切。それをただ信じればよい。

 

今朝の聖書は、私たちが神の国の戸口を叩いている姿を描いている。先ほど紹介した、ヨハネ黙示録3章8節も、「見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた」とあった。門を叩いて入るのは私たちである。ところが、少し後の3章20節にこうある。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」。

 

ここで戸口に立って叩く人。それは、イエス・キリストである。戸口を叩かれているのは、勿論私たち自身である。私たちの人生の扉、私たちの心の扉が、今、叩かれている。まだ扉は閉じられたままである。ここを開けなさい。私を中へ入れなさい。キリストは、懇願しておられる。キリストを迎え入れる。それだけが求められている。キリストを、戸口の外で一人にさせておいてはいけない。礼拝は、キリストの訪れのとき、そして私たちが責任をもってキリストを迎え入れるときである。東の人も西の人も、南の人も北の人も、等しくキリストの御訪問を受ける。それが日曜礼拝の恵みである。

 
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 
瑞浪教会へようこそ!
~ 2022年度の学び ~
 
「神の言葉を聴く幸い」                        2022年5月1日  瑞浪伝道所礼拝
    ルカ福音書11章24~28節、(詩編交読 119編25~32節)
                                    説教担当 小野静雄
聖書の信仰に生きる。それは注意深い生活である。注意深いということは、神さまがどのように働いておられるか、ということにできる限り敏感であるということである。私たちは、勿論、できる限り心を研ぎ澄まして、神さまの働きについて敏感でありたいと願っている。しかし、そのように心がけていてもなお、実際の生活では、注意散漫になっていることが多い。神さまの働きを、見分けることができないことが多い。
今朝の聖書では、キリスト自身が、私たちの状態、私たちの魂の様子について、注意深い配慮をしておられる。26節では、「その人の後の状態」と「前の状態」ということが比較されている。人には、前の状態と後の状態。いつもこの二つの状態がある。そして28節では、「むしろ幸いなのは」と言われている。「むしろ幸いなのは」。つまり、幸いということについて、考えが分かれているのである。ある人は、こういう状態を幸いだと考える。しかし、本当にそれが幸いであるかは、疑問がある。何が幸いであり、何がそうではないか。微妙な違いである。少し見方が変わると、幸いと思えることが実は幸いではない。反対に、とても幸いなどとは言えないことが、実は幸いである。幸いを感じ取るための、新しい眼差しを、キリストが与えてくださる。それが今朝の聖書の主題である。
 
汚れた霊が人から出てゆく。このように、霊というものが人間の生活に、今も何かの影響と力をもっている。そのように聖書は教える。悪霊とか、汚れた霊とか。そんなものが、現実に私たちの生活を左右するような力を持っているとは信じられない。私たちの常識はそのように言いたい。けれども、実際に世の中で起きているさまざまな出来事を、聖書に照らして観察すると、悪霊の働き、汚れた霊の働きとしか言えない出来事が後を絶たない。
加賀乙彦という作家が、『悪魔のささやき』という本を書かれた。加賀さんは、キリスト者でありまた精神家の医者でもあって、特にこの人は、多くの犯罪者の心に向き合ってこられた。加賀さんが向き合ったのは、極悪非道と言われる犯罪人。そのうち幾人かは死刑囚である。そうした人々の心に向き合っていると、どういうことがわかるか。犯罪人と言われる人の心だけではない。ごく普通の人々の心も、悪魔に付け込まれる弱さを持っている。特に、日本人の心が「霊」と結びつきやすい。日本人の心が、しっかりした自立した精神になっていないために、つまり「依存的」になっているために、悪魔とか悪霊とか、そういったものに依存しやすい、という。
悪魔に付け込まれやすい状態になっている。悪魔に付け入る隙を与えないためには、加賀さんは言われる。「宗教の本質についての理解を深める」ことだ、と。宗教の本質。それは、なによりもまことの神に出会うこと。しかし宗教は、自分の平安や自分の救いだけで満足することではない。むしろ、まことの宗教は、自分とは異質な、自分と違った人々を理解する力である。そして、理解するということは、愛することだ、と加賀さんは書いている。
 
24節では、人から追い出された悪霊が、しばらく砂漠をうろついているが、休む場所がない。それで、「出て来たわが家に戻ろう」という。悪霊は、自分が追い出された人の心を、「わが家」と呼んでいる。それほどに、居心地のよい家である。わが家、と言われるほどに、この家は悪霊に依存している。わが家に戻ってみると、きれいに掃除がしてある。とても気持ちのよい状態である。もちろん、悪霊が気持ちのよい状態とは、どういうものか。それはちょうど、砂漠をうろついて、休息の場所を探すようなものである。人の魂が、きれいに掃除してある。それは、悪霊から見て非常に住み心地がよい。つまりそこは、砂漠のような場所である。緑もなく、潤いもない。喜びもなければ、感謝もない。そういう砂漠のように、無味乾燥な場所が、悪霊にとっていちばん住み心地がよい。
人の心が、時おり、悪霊にとってとてもきれいな場所、居心地のよい場所になってしまう。そして、自分よりももっと悪い7つの悪霊を連れて、その人の中に住み着いてしまう。すると、「その人の後の状態は前より悪くなる」。この「後の状態」は、終末という言葉である。終わりの状態。人生の行く末。つまり、私たちは自分の人生の行方、行く末、ということについて、正しい感覚をもっている必要がある。そのときに、恐らく非常に大切なことは、私たちの人生が、悪霊の支配から自由にされた、という恵みをいつも忘れないことである。キリストは、私たちをそのような霊の支配から自由にするために、私たちを訪れてくださった。イエスの訪れ。それは何よりもまず、自分の罪という問題を、もう一度、はっきりと神さまから示されることである。
世界の改革派教会で、もっとも広く用いられてきた『ハイデルベルク信仰問答』。この問答は、生きるにも死ぬにも、ただ一つの慰めは何か? という深い問いかけから始まる。生きるにも死ぬにも、私たちのただ一つの慰めは、私たちがイエス・キリストのものであること。つまり「わたしはわたし自身のものではない」という。
そして、この問答の第2問もまことに深い教えである。
問い2「この慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬために、あなたはどれだけのことを知る必要がありますか」。
答え「3つのことです。
第1に、どれほどわたしの罪と悲惨が大きいか。
第2に、どうすればあらゆる罪と悲惨から救われるか。
第3に、そのようにこの救いに対して神に感謝すべきか、ということです」。
 
信仰と救いの第一歩は、自分の惨めさを知ることだ。なかなか厳しい。神なしには、イエス・キリストなしには、人間は本当に惨めなものである。私たちは、自分の惨めさを、真っ直ぐに見つめることができない。できれば目を逸らしたい。人生をできるだけ、明るく陽気に過ごしたい。あえて惨めな自分に直面するようなことは避けたいのである。
自分が、生まれながら惨めな存在である。惨めさの背後には、もちろん私の罪がある。神を神とも思わず、人を人とも思わないのが私たちの本性。しかし、そのようにどうにもならない罪の惨めさから、イエス・キリストは私たちを救い出して下さった。罪と惨めさを知るということは、同時に罪の赦しを信じるということである。ともすれば、自分の罪が赦された、という事実を忘れたまま、信仰の生活を続けているのではないか。自分が、赦された罪人である。これは宗教改革者ルターがしばしば語った言葉。赦された罪人である。赦されたから、もう罪人ではなくなったか、というとそうではない。自分の罪を忘れた信仰生活は、健全さを失う。悪霊が「出てきた我が家に戻ろう」と、平気で言い放つ。そのように言える環境になっているかも知れない。
これは、キリストが私たちに語られる、じつに厳しい警告である。「わが家に戻ろう」と悪霊に語らせてはならない。そのためには、戻れない環境にする。感謝と喜びのある家。賛美と祈りのある家は、悪霊にとって最も住みにくい場所である。そういう家は、悪霊にとって決して「わが家」ではない。私たちの心が、悪霊にとって「わが家」などであってはならない。私たちの心を、悪霊たちに「わが家」などと呼ばせておいてはいけない。そのためには、私たちの家が、祈りの家、賛美の家であることが必要である。感謝と希望の家をつくるべきである。罪の赦しを受け、今は聖霊の住まいとなっていることを、しっかり記憶する信仰に立ち戻るべきである。
 
同じ時に、一人の女性が群衆の中から声を上げた。イエス・キリストを宿した胎、キリストが吸った乳房は幸いです。もちろん、キリストが生まれたことは、母親としてのマリアにとっても幸いである。キリストは、その母親の恵みの元、祝福の元である。しかしキリストは言われる。本当に大切なことは、キリストとどこで繋がっているか。キリストを宿した、というのは人間としての関係。身体的な関係で結びついている。イエスの母マリアが、幸いな人になったのは、そういう自然の関係ではない。神の子を宿す。そういう不思議な御告げを聞いたとき、「お言葉通りこの身になりますよう」。「お言葉どおり」。そう言って神の言葉を受け入れた。神の言葉が、人間の幸いを作る。
大切なことは、神の言葉に繋がることである。主イエス・キリストの弟子ペトロは、主が捕らえられたとき、あなたもキリストと一緒にいたはずだ、と周りの人から咎められた。するとペトロは、いやキリストなどという人は知らない。そう言ってイエスの弟子であることを否定した。「あなたもあのナザレのイエスと一緒だった」。これを否定した。ペトロの人生にとって、ナザレのイエスと一緒にいたこと。これにまさる幸いはなかった。ナザレのイエスなき人生。文字どおりそれは砂漠である。イエスと一緒にいた。これこそペトロの人生の、ただ一つの恵みである。キリスト者とは、ナザレのイエスと一緒にいることを感謝することである。言い換えれば、神の言葉を聞き、それを守る生活である。
 
詩編119編。この長い詩編が、初めから終わりまで語っている一つのこと。それが、神の言葉から離れない生活。神の言葉にぴったりと付く生活、それを願っている。神の言葉の中に、自分の住まいを作る。そうなれば、「出てきたわが家」などと、悪霊に物を言わせることはない。「わたしの魂は塵に着いています」(119編25節)。希望を失っているというのである。これが、神の言葉を失った人の心の姿である。28節「わたしの魂は悲しんで涙を流しています。御言葉のとおり、わたしを立ち直らせてください」。この詩人は、神の言葉に従う生活が十分にできている、などと主張しているのではない。119編の詩人は、自分が迷いやすい羊であることを、よく心得ている。31節「主よあなたの定め(神の言葉)にすがりつきます」。すがりつかなければ、落ちてしまう。
神の言葉を聞いて、それに信頼する。そういう生活にこそ、幸いがあると、この詩人は確信する。32節では「あなたによって心は広くされる」と告白する。ストレスが解消される、苦しみが解ける、という言葉である。神の言葉、イエス・キリストの言葉。それが届けるのは神の愛である。神さまの愛に触れてこそ、私たちの心はくつろぐ。聖書は私たちをストレスからも解放してくれる。
人は、ともすれば別の寛ぎを求める。つまり神さまの言葉、神の愛以外の場所に、本当の恵み・幸せ・寛ぎがあると考える。神と共に生きるより、もっと別な、もっと良い人生がある。どうして、私たちは、こんなに速やかに神の言葉を忘れるのか。ボンヘッファーという人(ヒトラーに抵抗して処刑された牧師)が、詩編119編の一部分について、大変、深く美しい黙想を残している。ボンヘッファーは書いている。「私の思考が神の言葉からかくもすみやかに離れ、しばしば必要な時に必要な言葉を思い出せないのはどういうわけか。いったい私は食べたり、飲んだり、寝たりするのを忘れることがあろうか。どうして私は神の言葉を忘れるのか」。
どういうわけで、どうして神の言葉を、私たちはたやすく忘れるのか。ボンヘッファーは言う。原因は一つだ。神の言葉を喜ぶ、という一つのことが欠けている。御言葉を愛する愛が乏しい。あなたの定めを喜びます。この信仰が、私たちの中に定まっていない。30節の言葉で言えば、「信仰の道をわたしは選び取りました」。このきっぱりした告白から、しばしば私たちは遠ざかる。キリストに対して曖昧な場所にうずくまっている。御言葉を忘れないためには、神の言葉への愛が必要だと、ボンヘッファーは記している。「忘却を阻止するものは、愛だけである」(257ページ)。
 
神への愛、神の言葉への愛。そこに私たちは、繰り返し立つよう、心を定めたい。「信仰の道をわたしは選び取りました」「神の言葉への愛をわたしは選び取りました」。そこに、幸いが生まれる。私たちを決して欺かない、キリストからの幸いが、私たちを必ず支えてくれる。