~ 2020年度の学び ~

 

申命記 第6回「高価な恵みの道を行く」             2020年8月2日 瑞浪伝道所学び資料

  申命記4章32~43節                             担当 小野静雄

 

⑴ 聖書の神は、ほかに比べることのできる相手をもたない。神は比類のない存在であられる。したがって、そのように比類ない神を、人間は自分の力や知恵で知ることはできず、自分の好みにまかせて近づくこともできない。35節に「あなたは、主こそ神であり、ほかに神はいないということを示され、知るに至った」とある。神は、御自身をその選びの民に知らせようと決断された。神は、あらかじめ選んだ民を永遠から愛し、神の恵みの中へと呼び出すために世界を創造し、歴史を創出された。このような神がほかにあろうか、と申命記は問いかけている。

 

神の選びを受けた民は、それぞれの人生が神によって条件づけられていることを喜ぶ。生きることも死ぬことも、すべての条件は私たちが自分で選んだものではなく、神によって条件づけられている。そのように、恵みによって備えられた条件の中を、私たちは自由と感謝、喜びと従順をもって生き抜こうと決意しているのである。神が、御自分の愛を世に示されるまで、私たちは愛が何であるかを知らなかった。神が、独り子イエスを与えてくださるまで、私たちは無償の恵みが何であるかを知らなかった。神が、独り子イエスにおいて受けた苦しみを歴史の中心で明らかにされるまでは、人は苦しみの本当の意味を知らないままであった。

 

⑵ 生きる意味を明らかに知るために、人は必ず神に出会い、神に学ばねばならない。そして聖書のすべての言葉がそうであるように、申命記はひときわはっきりと、神の前に生きる人間の恵みと責任を教えている。人はいかにして、神の民として生きることができるか。それは私たちの心に最も深くするどく迫る問いである。しかし、何より重大なことは、人はそもそも神の前に生きることができるのだろうか。それが、聖書によって示される大きな主題であり問題である。神の前に生きること。それなしには、人は人としての本来の歩みを踏み出すことができない。

 

それを最初に教えられた人が、アブラハムである。「主はアブラムに現れて言われた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい』」(創世記17章1節)。「わたしに従って」とは、「わたしの前に」という意味である(文語訳、口語訳、新改訳、その他)。「神の前に」生きることが「神に従う」人生である。人は神の前に、神に従う人生を歩む以外に、人としての完成(「全き者」)に向かうことができない、そう聖書は明言するのである。

 

⑶ 神の前に生きることの恵みと厳しさ。それがこの部分での申命記の主題である。「火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きている、あなたと同じような民があったであろうか」(33節)。火の中から語る神に対面する体験。それは出エジプト記3章でのモーセの体験であり、出エジプト記20章でのイスラエルのシナイ体験である。いずれにしても、神が人間に向かって語るという、大きな恐るべき出来事があり、そこからイスラエルの民は歴史の中で生命を与えられたのである。初めに恵みがあり選びがあった。本来、限りある人間が全能の神に出会うことは許されていない。しかし、不可能を可能にする愛と招きがイスラエルの民を生み出したのである。

 

聖書の宗教は、人が真の神を知り、神に従うところにその本質がある。「主こそ神であり、ほかに神はいない」(35節)。すでに述べたように、人が神を知ろうとする前に、まず御自分を知らせようとする神の決断がなければならない。神の啓示が優越するのであり、人間の知恵や霊性が神を見出すのではない。人は自分の好みにまかせて神を知り、神に仕えることはできない。

 

⑷ この点での人間の理解のあいまいさが、聖書の信仰に向かう場合にも依然としてもっとも大きな障害となっているようである。傲慢にも、いつでも神を見出すことができる、と考えているのである。そういう自己中心の背景があるために、神に近づくも自由、離れるも自由、という驚くべき逸脱が私たちの信仰生活を左右することになる。信じたいときに信じればよい。それは人がいつでも自分で神を見つけられる、と高を括っているからではないだろうか。しかし聖書の神はそうではない。「示され、知るに至った」(35節)。これだけが神を知る道である。示され、招かれなければ知ることはできない。

 

神の招きは、御自身の民を訓練するためである。「主はあなたを訓練するために、天から御声を聞かせ」られた(36節)。唯一の神、全能者は、人間を訓練される。戒め、とがめ、励まし、訓育して、神の民にふさわしく整えられる。神の教育と訓練が、私たちにまことの信仰への道を進ませてくださる。その訓練を支えるのは、神の民への「愛」であり「選び」である(37節)。神は愛する子らを訓練される、とヘブライ人への手紙は教える(12章7~13節)。神の方法は、旧約以来変わらない。神の訓練と教育を受けないかぎり、人は自分が神の前でどのような存在であるかを決して学ばないのである。

 

⑸ 聖書の信仰の急所は、人間が神の前でただの人間に過ぎないという事実を、肝に命じて分かるか、という点にある。神がまことに神であるということと、人がただ人に過ぎないということは、一枚の紙の裏と表の関係にある。自分が人に過ぎないことを忘れ、自分を小さな神であるかのように思っているところでは、神を真実に畏れる信頼は生まれない。そこでは、神から受ける訓練、神による教育なども問題にならないのである。訓練を受けるくらいなら信仰を捨てる方がよいという気持ちが、特に私たち日本のキリスト者には強いのではないか。都合のよい時には信じるが、自分が神の前に低くされるような経験を強いられると、たちまち神の前から引き下がり、主の前を去って、エデンの東、ノドの地に移り住むのである(創世記4章16節)。

 

32節には、「神が地上に人間を創造された最初の時代」とある。こういう言葉を、私たちは当たり前の発言ととってはならないのであって、これは物凄いほどの言葉である。人間が語り得る言葉とは次元の違う発言である。ただ一言で、神による人間の創造という、歴史を飛び越えた事実を語る。これは人が自分で見出す言葉でなく、まさに神の啓示によって示される真理である。人間を根底から、真に底の底から掴み取る言葉であり、これが聖書、これが神の言葉である。したがって聖書を真剣に読めば、人は謙遜にならざるを得ない。砕かれるほかにないのである。それがアブラハムやヨブの経験である。

 

⑹ 選びの民の歴史は苦しみと試練の道である。「主はあなたの先祖を愛された」(37節)。しかし、言うまでもないことだが、選びの道は罪と無縁な、きれいごとの世界ではない。地上の歩みが、そのまま天国の生活を映す夢のような経験でないことを、聖書はいかなる妥協もなく描き出す。それをはっきり教えるのが「逃れの町」の教えである(41節以下)。罪を犯した人間は、たえず不安につきまとわれる。しかし神は、重大な罪のためにも逃れる道を備えておられる。神が定めた町に逃れれば、故意に犯した殺人でない限り、赦しを得ることができる。

 

実際に殺人の罪を犯すわけではなくても、私たちは、一人の人間としてそれぞれ「逃れの町」を必要としている。罪の支払う報酬が死である、という揺るぎない定めが、いつも私たちを問い詰めている。旧約聖書と新約聖書が、一致して証言する神の定めである。赦しなしには生きられない。人はただの人であり、神の前に、いちど死ななければ生きることができない。火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きているような人間はいるか、とモーセは問いかける。人は、神の声、神の定めのもとで、いちど死ななければ生きることはできない。

 

⑺ 洗礼は、このような死の宣告をもたらす恵みである。洗礼は、いちど神によって神の中へ死んだことを示す。洗礼後の生活は、このような神の中への死を事実として経験してゆくための歩みである。そこに、神による行き届いた訓練があることは当然である。申命記4章は、このように周到な手順を踏んで、十戒の啓示に備えている。神の戒めが置かれている土台は、深く堅固であり切実な愛に満ちている。

 

私たちにとっても、十戒は洗礼後の生活への確かな指針であり戒めである。神の前に生きられるはずのない罪びとが、呪いの死を免れている。主イエス・キリストの十字架が、私たちの死から呪いの力を取り除いてくださったからである。十字架によって罪を赦され、今は神に向かって生きるものとされた。だからこそ、この救いの恵みを安価なもの、安易なものと考えてはならない。十字架こそ、私たちにとって「逃れの町」である。十字架に逃れ行き、十字架に支えられながら、神の訓練を喜ぶ信仰に励みたい。人はただ人である。この真理を学び、十字架のもとで真の平和を経験する。それがキリスト者である。

 

------------------------------------------------------------------------------------------------------

  申命記 第5回「求めなさい、罪のただ中で」           2020年7月 伝道所の学び資料

     申命記4章15~31節                   担当 小野静雄(代理宣教教師)

 

⑴      「主は契約を告げ示し、あなたたちが行なうべきことを命じられた。それが十戒である」(4章13節)。イスラエルと教会の「行うべきこと」は、神の恵みへの心からの応答であり感謝の献げものである。まず神の選びがあり、選びの具体的な枠組をつくる契約が示される。その契約の条項が十戒である(瑞浪の礼拝での十戒の位置)。したがって十戒を行うことは、神の選びと契約に対する自発的で喜びをこめた感謝、服従である。十戒は、恵みの神に従えという招きであり戒めである。戒めがあるからこそ、私たちは自分が人生の主人でなく、私たちにはまことの主がおられることを知り経験することができる。〈主なしの人生〉ほど、私たちの魂を不安にし、人生の歩みから確かな方向を奪い去るものはない。〈主あっての人生〉を与えるために、神は選びと契約を通して私たちを主の民としてくださった。

 

モーセがイスラエルの民に求めるのは、何よりも「注意」深さである(9、15節)。その注意深さが、何にもまして問われるのは「偶像礼拝」の問題である。4章12節で「あなたたちは語りかけられる声を聞いたが、声のほかには何の形も見なかった」とある。この事実が詳しく展開されるのが15節以下である。神には見える形がない。その深い真理から偶像への鋭く厳しい批判が語られる。

 

⑵ 偶像の問題は、生けるまことの神への不信から生まれる。特にイスラエルにおける偶像問題の根本原因が、神信頼の欠如にあることは疑いない。聖書の神は最も純粋な霊であられる。ウェストミンスター信仰告白2章1節の一部を引く。「神は、存在と完全性において無限・目に見えず、身体や器官や激情を持たない、最も純粋な霊・不変で・不可測的・永遠で・理解しつくすことができず…」。このような永遠で不変の霊なる神を、形にして刻むことは、神の本質と威厳をありのまま受け入れない不遜な精神の仕業である。神信頼の欠如と反抗と言わねばならない。

 

偶像礼拝には二つの種類がある。イスラエルの人々が最初に陥ったのは、唯一のまことの神を、見える形にして拝むという過ちである。25節はこの第1の場合であろう。「あなたが子や孫をもうけ、その土地に慣れて堕落し、さまざまの形の像を造り、あなたの神、主が悪と見なされることを行い、御怒りを招く」。これに対して、もっと徹底した偶像への誘惑と過ちは、28節にある通りである。「あなたたちはそこで、人間の手の業である、見ることも、聞くことも、食べることも、嗅ぐこともできない木や石の神々に仕えるであろう」。もちろん、これらの偶像礼拝を二つに分類することに、格別の意味があるとも思えない。神でないものを神として拝むことは同じ罪である。しかし、偶像礼拝も次第に霊的な段階を経るのであり、最後で最高の偶像礼拝は「貪欲」という罪である(コロサイ書3章5節)。

 

⑶ 19節には、偶像礼拝への警告との関連で、天体についての深い理解が示されている。「太陽、月、星といった天の万象を見て、これらに惑わされ、ひれ伏し仕えてはならない。それらは、あなたの神、主が天の下にいるすべての民に分け与えられたものである」。太陽も月も星も、神が世界の民に与えておられる。無限とも言われる宇宙も、人間の視線と生活のために神が与えた贈り物である。これらの天体は、神から独立した霊的な力をもっているわけではない。人間の運命を司ることも世界に働きかけることもできない。主なる神がただ一人自由な神であり、一切のものに存在と場所を与え、御自身は何者にも支配されない。

 

このように神こそ自由な方である。そして人間は、被造物のなかで唯一、神の形に創造されたものとして、神の自由を部分的に映している。25節に「その土地に慣れて堕落し」とある。土地に慣れるのは自由があるためである。その土地でどのように生きるかは、人間に委ねられている。そこに大きな責任がありまた苦しみもあると言わねばならない。人は神に従う人生を生きることができる。しかしまた、自分の思いを中心にして神を忘れ神に反抗して生きることもできる。これからイスラエルの民が入ってゆく土地は、文化と繁栄の土地である。文化の立場は、かならず「あれもこれも」という立場である。心を一つに集中することができない。これに対して信仰は、「あれか、これか」である。

 

⑷ 24節「熱情の神」は、「あれか、これか」という神の本質を示している。だから文化の世界で生きる信仰には誘惑が伴う。文化の世界に入るとき、人はつねに「あれもこれも」という誘惑にさらされる。偶像礼拝は、このような誘惑の最たるものである。モーセは、今からイスラエルの人々が入ってゆく世界で、彼らが様々な罪に陥るであろうことを、はっきり告げている。非常に厳しい世界に、あなたがたは入ってゆく。そして、神の裁きもまた、まことに絶大な力であなたがたを脅かすであろう。

 

偶像礼拝の罪も、最初は自由な意思によって始まるのである。カナンの神々に誘われるとき、イスラエルは自由にふるまって罪を犯す。罪に背を向け、神への従順を選ぶよう命じられているにも拘わらず、あえて罪を犯す。そこで働くのは罪に向かう自由である。この自由は病んでいる。そして、すべての罪には裁きが伴う。罪は罰を伴っている。旧約聖書の言語には、「罪」と「罰」という2種類の言葉があるわけではない。「罰」という言葉はヘブライ語になく、罪とも罰とも訳すことができる。罪と罰が、区別できないほどに繋がっている。それが神との関係に生きる厳しさである。

 

偶像礼拝の罪を犯せば、その罪の中に既に罰が含まれていて、人は偶像から離れられない精神の囚人となる。罪を犯せば霊的な生命は衰弱し、信仰も衰える。そして罪を犯すことに慣れる。28節「木や石の神々に仕える」は、仕えなければならない、という含みをもつ。自由な意志は奪われる。偶像に仕えることが精神の習慣となり、そこから逃れることもできなくされる。

 

⑸ ここでモーセが、早くもイスラエルの捕囚と離散という将来の苦難を予告している(27節)。約束の地に長く留まることができず、異国の地に追いやられ散らされる。そして非常な苦しみがあなたがたに襲い掛かるだろう。生き残る者がわずかになるほどの苦難を経験し、もはや罪からの自由も得られない。イスラエルの罪はそれほどに深く、彼らが味わう苦しみは決定的に大きい。「これらすべてのことがあなたに臨む終わりの日、苦しみの時」(30節)。信仰に生きる人間は、このような苦しみのただ中を忍びながら生きる。歴史の中で終末を目指すとは、そのような苦難を忍ぶことである。

 

しかし、申命記の示す信仰の素晴らしさは、これほどの罪と苦悩の深みから、神を尋ね求めることを命じるところにある。「あなたたちは、その所からあなたの神、主を求めねばならない」(29節)。神に背いて罪を犯せば、同時に神の裁きと罰をも受けなければならない。そしてイスラエルは、罪の結果として、ほとんど滅びの淵にまで追いやられる(26節「必ず滅ぼされる」)。絶滅するほどの処罰を受けるのである。そのような決定的な苦しみと滅びの中で、一体、どうして神を尋ねることができるだろうか。どうして、心を尽くし、魂を尽くして神を求めることができようか。

 

⑹ しかし、求める者にはどれほどの失意と転倒の中からも道が開かれる。「求めるならば、あなたは神に出会うであろう」(29節)。神は、そのような深みと苦しみの中で私たちに出会われる。裁きと失望の中で、私たちが神を尋ねることができるのは、神が、神御自身が、罪びとを尋ね求めておられるからである。私たちの生活の深み、文化と偶像礼拝の深みまで神の探索、神による人間の追求は及んでいる。私たちのように、偶像の神しか知らず、人を愛してやまないまことの神を持たずに歩んだ者が、いま主イエス・キリストを信じる民の端くれに繋がっている事実がそれを物語る。

 

 「あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも滅ぼすことも、あなたの先祖に誓われた契約を忘れることもないからである」(31節)。ここに申命記が、いや旧新約聖書ぜんたいが示す神の本質がある。人間はまことに救い難い。人間の陥っている悲惨は筆舌に尽くし難い。どうしてそこから救われるか。人の状況を見れば、見えるのは闇ばかりである。しかし神は、それでも私を求めよと詰め寄ってくださる。ぎりぎりのところで神が断念なさらない。神は救いへの希望を決して捨てなかった。それがイエス・キリストを遣わした愛である。驚くべき愛が私たちを見出し、私たちを包んでいる。それが契約と選びの愛である。だからこそ、罪と苦しみの中で、私たちは今ある場所から神を待ち望む。光あるうちに光の子となるため、光を信じなさい。この励ましが私たちの希望である。

 

 ------------------------------------------------------------------------------------------------------

 

  申命記 第4回 「今日という日に、主に従おう」         2020年6月 瑞浪伝道所 学び資料

   申命記4章1~14節                       担当 小野静雄(代理宣教教師)

 

 ⑴ モーセは、約束の地を目前にしながら、自分の足でその地を踏みしめることは許されない。しかし、神はピスガの山頂にモーセを導き、やがてイスラエルの民が入ってゆくカナンの地を遠望(えんぼう)させてくださる。その約束を胸に、モーセはなお残された務め、つまりイスラエルの民に神の言葉を残らず告げる働きに集中している。そのモーセによる最後の勧告が、ここでも深く切実な言葉で語られている。

 

モーセによる勧告の中心を流れる線は、神の教えと掟(おきて)に対する忠実さである。「イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行ないなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう」(1)。これは、申命記におけるモーセの説教の、いわば総内容である。主の掟と法に対する忠実さ――そこにイスラエルの民が生きる信仰と服従がある。何よりもまず注意すべきことは、ここでは戒めを行うことでイスラエルが義を得る、などという約束が語られているのではない。律法の行いが、人間を義とし救いを生み出す、という教えは、旧約聖書の戒めの理解ではない。戒めへの服従、従順は、どこまでも救われた恵みへの感謝である。

 

旧約、そしてモーセの律法は、どこまでも「恵みの契約」である。神による一方的で無条件の贖(あがな)いが、いつも先立つのである。求められているのは、神の戒めへの誠実さ、つまり戒めを賜(たまわ)った方への信頼と従順である。律法の行いという点では、十戒を受ける以前も以後も、イスラエルは徹底した違反者の群に過ぎない。重要なのは、行いによる義を得ることではなく、恵みと憐れみを賜る主なる神への誠実な応答であり、神の言葉を中心とした礼拝生活である。

 

⑵   4章のこの部分では、やがて5章で詳細に語られる十戒の、第1、第2の戒めが先取りされている。3節では、イスラエルの民が「バアル・ペオル」で行ったバアル礼拝の罪が回想されている(民数記25章を参照)。モアブの先住者が拝んでいるバアルに、多くのイスラエルの民が心惹(ひ)かれ、霊的な姦淫の罪を犯してしまう。しかし、そのような罪と滅びの中からも、「主につき従ったあなたたちは皆、今日も生きている」(4)。神は、救いと滅びという二つの道を、イスラエルの前に置かれる。救いは、悔い改めて神に立ち返る者に与えられる。問題は、罪を犯さないことではなく、罪から離れて立ち返ることである。

 

十戒の問題は、12節では、第2戒の違反としても先取りされる。先取りとはいえ、実際は既に起こってしまった違反の回想である。第2戒は偶像礼拝の禁止であるが、この戒めは第1戒と深い関連がある。まことの神が、ご自身をイスラエルに啓示されるとき、決して見える「像」を用いないことが、12節で力説されている。つまり、神の啓示は「語る」(12)ことであり、「声」を聴かせることである。主の契約は「告げ示す」という言葉の働きであり、「行うべきことを命じる」という命令の言葉である。「声のほかには何の形も見なかった」(12)。

 

⑶  神は言葉によって御自身を示される。そこでイスラエルと教会に求められることは、言葉、声に対する真剣で注意深い応答でなければならない。イスラエルの神には、姿も、形も、いかなる像(ぞう)もない。万物を創造された方は、御自身ではどのような「形」や「像」にも縛(しば)られない。しかし、形として見えないからといって、神の啓示があいまいなものである、と考えてはならない。7節には、「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主」という著(いちじる)しい言葉がある(後述)。

 

神の啓示は、深く鮮明(せんめい)である。しかし、神は言葉と声を通してイスラエルに自らを示す神であり、御自分を隠そうとすれば、どのような探求によっても発見され得ない。11節で「山は燃え上がり、火は中天に達し、黒雲(くろくも)と密雲が垂(た)れ込めていた」。そして主は「火の中」から語られる。つまり、神は輝く火の中で自身を示し、同時に自らを「黒雲と密雲」の中に置かれる。言葉によって自分を啓示される神には、このような徹底した自由がある。神は秘密(かくすこと)と啓示(あらわすこと)を自由に用いる。《神秘さ》と同時に《近づきやすさ》もある。すべてを超越する《高さ》と、すべてに内在して自分を与える《親しみ》がある。これが、イスラエルと教会の神、主であられる。

 

⑷  このようなまことの自由の中に住まれわる神に対して、イスラエルに求められるのは、神への忠実、「主につき従う」信頼である。「つき従う」は、固着(こちゃく)することである。これから入ってゆくカナンには、豊かな自然、文化、富、宗教がある。人間の欲望に応(こた)える神々が待っている。その際、自分の欲望を野放(のばな)しにする者は、カナンの偶像に着く。貪欲という偶像である。

 

だからこそ、御言葉によって語る神、主(しゅ)に、心から従う決断が求められる。固着する信仰である。神の言葉以外のものに、人生観、世界観の基礎を求めない、明快かつ単純な信仰の決断である。信仰は、神の言葉に固着して離れないことである。固着することを怠(おこた)り、人間の欲求と願望に身を委ねるならば、信仰の破船をきたす。神の言葉に生きればこそ、「あなたたちは皆、今日も生きている」(4)。

 

イスラエルの信仰、教会の信仰は、神の戒めと法、つまり神の言葉によって生きる道である。人はパンだけで生きるものでない、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる、という聖書の価値観に固く立つ道である。こうして、御言葉に生きる神の民には、「知恵と良識」が備わる。神の民は、人間の知恵や良識を優先しない。たとえ人間の良識に逆(さか)らっても、神の言葉の真理に生きることをたえず決断する。

 

確かに、時代や社会を先導するかに見える知恵があり良識がある。そして、心身の健康にとって必要不可欠な知識があり、社会や経済をみちびく健全な知恵があることを、キリスト者は喜んで認める。教会の信仰は、健全な良識を無視するような、独りよがりの教えであってはならない。

 

しかし一方で、政治的な主義主張、時代の先端をゆく科学的な知識、あるいは時代と人々の大多数を引き寄せる、見栄(みば)えよく、耳触(みみざわ)りのよい賢い言葉が、今も私たちの身の周(まわ)りに満ちている。そのようなものによって、生き方の《基本線》を造ろうとすれば、私たちは直(ただ)ちに、それらの背後に隠されている古い神々の虜(とりこ)になってしまうほかにない。

 

⑸   私たちは、さらに深いところに真の知恵と良識を求めたい。そのために決して遠くへ探しに必要はなく、智者・賢者と言われる人に教えを乞(こ)う必要もない。聖書の神は、呼び求める者に答えてくださる。この方は御言葉によって民を教え、御言葉の力で救いをもたらす。

 

何よりも、私たちにとって最も近い言葉、近くにありそして唯一でもある神の言葉は、イエス・キリストである。旧約聖書と新約聖書の中で語り続ける御言葉。それはイエス・キリストである。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・・言は肉となってわたしたちの間に宿られた」(ヨハネ福音書1章1、14節)。神と共にある命の言葉は、すでに旧約聖書のなかで「戒め」として、「預言」として、「知恵」として、そして「詩編」や「歴史書」の中で語り続けたキリストである。そして、終わりの時代に、言は肉となって私たちの間に宿り、私たちに近い神、世にいる神となられた。

 

このイエス・キリストという言葉に聴くこと、信頼すること、服従することが、イスラエルと教会の召(め)しである。「聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の言葉である」(『バルメン神学宣言』第1項)。

 

このように私たちに近くおられる神の言葉に、いつ聴き従うべきか。それは「今」である、とモーセは宣言する。「イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行ないなさい」(1)。「わたしが今日あなたたちに与えるこのすべての律法」(8)。どのような時代の中でも、神の言葉が断(た)たれることはない。しかし、神の言葉の飢饉(ききん)があると聖書は警告している(アモス書8章11節)。この警告に耳を傾けるときは「今」である。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(第二コリント6章2節)。

 

「今日」という日に、新しく神の言葉を学び、今日という日に新しい心で御言葉に耳を傾ける。それが、近くにいます神をもつ民の責務(せきむ)である。いつか神の言葉を聴いたことがある、というのでは駄目である。明日は神の言葉を聴こう、というのでも駄目だろう。私たちには、神の言葉に関して、昨日も明日もない。「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい」(ヘブライ3章13節)。神の言葉の「今」を真剣、誠実、注意深さをこめて捉(とら)えること。それが「近くにいます神」への信頼の証しである。今日、という日に恵みを信じ、神の言葉への方向転換に心砕くこと。そこに恵みがあり約束がある。

    

------------------------------------------------------------------------------------------------------

 

 申命記 第3回「望み見よ、約束の地」                2020年5月 瑞浪伝道所 学び資料

     申命記3章18~29節                             担当 小野静雄

 

 ⑴        神がイスラエルの民に、約束の地を与えて下さる。しかしそのために、イスラエルの民は戦いを避けることができない。その戦いを、聖書の伝統では聖なる戦い、「聖戦」と呼ぶ。すでに見たように、イスラエルの歴史では、聖戦という戦いが、いつでも求められ認められたのではない。実際には、長いイスラエルの歴史、旧約の歴史のうちで極(きわ)めて限定された間、徹底して相手を滅ぼすという戦争が許可されたのである。

 

特定の戦いだけが、聖戦として認可され命令された。3章前半の部分は、そのような聖戦の歴史を振り返っている。6節「我々はヘシュボンの王シホンにしたように、彼らを滅ぼし尽くし、町全体、男も女も子供も滅ぼし尽くした」。どれほど神から示された戦いとはいえ、戦闘員でない女性や子供まで皆殺しにした戦争の末に、約束の地を手にいれて入植する。その現実を想像すると、私たちの心は痛む。

 

そこに、この世で信仰に生きる際に私たちも経験しなければならない大きな痛みがあり、矛盾としか言えない現実がある。子供も女性も殺さなければならない戦争。そこに生まれる犠牲の大きさに、信仰に生きることの厳(きび)しさ、たたかい、矛盾を感じることは避けられない嘆(なげ)きである。信仰と歴史の矛盾・相克(そうこく)、時と永遠のきしみ、義と愛のせめぎ合う現実を思わずにいられない。

 

その意味で、この世で信仰に生きる道は厳しく、大きな苦難と限界の中を生きるほかにない。信仰に生きること、そして神に従うことが、時としてこの世の常識や人としての心情に背くような事態もありえる。ここで確認しておくべきことは、聖戦の歴史を、人道的・道徳的な目だけで見ることはできない、ということである。イスラエルが約束の地に入ることは、道徳的な意味以上に、深い霊的な意味と目的をもっている。救いの歴史が、どうしても抱え込まねばならない厳しい現実である。

 

そのような厳しさを感じればこそ、私たちは御国を求める祈りを強めるべきである。「御国を来たらせたまえ」と祈るよう、主イエスが教えてくださったのは、かりそめではない。教会の歩みは、神の国への渇きである。かつて聖戦をお命じになった神が、いまは独り子を十字架に送られる。十字架こそ、歴史の矛盾、愛と義のせめぎ合いを一つにする神の奇跡、神の愚かさである。

 

⑵ このことは、20節で言われる「安住の地」という表現の中に、部分的に現されている。イスラエルは12の部族から成る。その中で、マナセの半部族、そしてルベンとガドの部族には、ヨルダンの東の地方が与えられる(3章12、13節)。つまり本来の約束の地に入る前に、自分の土地を見つけて定住する部族がいたのである。

 

けれども、すでに定住の土地を見つけた部族であっても、約束の地への旅路を途中で離脱(りだつ)することは許されない。あくまでも、他の同胞(どうほう)と一緒にヨルダン川を渡るように求められている。「妻子と家畜」は、すでに得た定住地に残してもよい。しかし「戦士」たちはそうではない。最後まで旅を共にし、共に戦うよう命じられる。「主があなたたちと同じく、これらの同胞に安住の地を与え、ヨルダン川の西側で彼らもあなたたちの神、主が与えられる土地を得るならば、あなたたちはわたしが既に与えた領地に帰ってよろしい」(20節)。

 

⑶   それは何を意味しているだろうか。ひとつ考えられることは、イスラエルの旅路の最終的な目的は神の下さる「土地」そのものというよりは、「安住する」という事実の方に重(おも)きがある。「安住する」は、休息を味わうことである。「兄弟たちにも休息を与え・・・」(20節、フランシスコ会聖書研究所訳)。「安住」というと、やや消極的に響くが、その趣旨は「安息」「休息」である。神は、かつてイスラエルの民に安息を約束されたと同様、私たちにもまことの安息を与えてくださる。信仰に生きることの、何よりも大きな恵みは、神からの安息である。神とともに生きるときにしか味わうことのできない特別の休息である。その意味でも、キリスト教安息日としての日曜日を私たちは大切に受け取りたい。

 

もちろん罪のゆえに、私たちはこの世では安息を得難(えがた)い。罪に苦しみ、安息から遠い場所で、心に憂いと葛藤(かっとう)をいだきながら私たちは生きる。そのような困難な歩みを経(へ)て、少しずつキリストが約束された休息に向けて歩んでいるのである。多くの怖れに囲まれ、今と将来への不安に胸を締め付けられるような思いを味わっている。「わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか」(ヘブライ人への手紙4章11節)。

 

安息への道は、安閑(あんかん)と待っているだけで得られるのではない。ヘブライ人への手紙4章は、安息に向かう神の民の切実な祈りとたたかいと労苦を教える。多くの苦闘を経て、はじめて神の安息の意味と恵みを私たちは体験する。「主よ、あなたは私たちを、あなた自身に向けてお造りになったので、私たちの魂は、あなたの内に憩(いこ)うまでは安らぎを得ないのです」。このアウグスティーヌスの告白に、すべてのキリスト者はアーメンと唱和するだろう。

 

⑷  旅路の本当の目当ては、土地という物質的なものではない。むしろ土地を賜(たまわ)る恵みを通して、イスラエルが味わうべきは、神御自身に出会うことである。その霊的な真実を示すのが、23節以下のモーセの祈りであり、祈りへの神の回答である。モーセの祈りは美しく深く痛切である。聖書に描かれる数ある祈りの中でも、深さと美しさのみでなく、信仰に生きる消息をこれほど豊かに伝えるものはあまり例がないと言える。

 

 

モーセは、自分自身も約束の地に入ることを切望する。それは当然すぎる願いである。モーセは、神が驚くべき力をもってイスラエルを導き、約束の地への旅路を実現されたことを讃(たた)える。そのように偉大な力をもつ神が、わたしにも約束の地を踏ませてくださるのは容易(たやす)いこと、なぜできないことがあるでしょう。

 

 

しかし神はモーセの願いを拒み、「もうよい。この事を二度と口にしてはならない」と厳命(げんめい)される。二度と口にするな。旧約聖書のある研究者は、この口調に「親しい友」に向かって語る情愛がこもる、という。しかし拒絶は拒絶である。普通の感覚ならば、モーセへのこの拒絶は、イスラエルの指導者が経験した「悲劇」として読まれるはずである。しかし、申命記自身は、このモーセの経験をけっして悲劇とは受け取っていない。

 

 

⑸  神は、ピスガの山頂に登るようモーセに命じられる。そして、ヨルダンのかなたに目をやり、「東西南北を見渡す」よう命じる。「自分の目でよく見ておくがよい」。この優(すぐ)れた指導者モーセが、ピスガの山頂で実際に約束の地を望み見るのは、申命記末尾(まつび)の34章である。「わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない」(34章4節)。

 

モーセは、満ち足りた心で全地を見渡したに違いない。かつてアブラハムが、目を上げて見渡した土地である。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」(創世記13章14節)。アブラハムの視線(しせん)は、神のはるかな約束への待望の視線であり、モーセの視線は、約束をかなえてくださった神への感謝と信頼の視線であろう。いずれにしても、自分では踏むことのできない地を望んで、実際にその土地を踏みしめる以上に深く現実性を帯びて見る。アブラハムからモーセへつながる「信仰者の眼差(まなざ)し」がここにある。

 

アブラハムの場合もモーセの場合も、切に求めたのは土地ではなく、神御自身である。地上を旅する神の民も、それぞれの時代、それぞれの状況で、見える事柄の実現を目指す。瑞浪伝道所にも、目に見える希望、人で溢れる会堂を見たい。けれども私たちが最後に待ち望むのは、人との出会いでなく、神を待ち望む。

 

モーセは、自分が現実に約束の地を踏むことがない、と分かったときも、恐れもせず恨(うらみ)みもしなかった。信仰の目で、見るべきものを真実に見ていたからである。「見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいた」(ヘブライ11章27節)。モーセは、約束の地の手前で、すでに神を得ていた。だから「ここに留(とど)まれ」という御命令に、従順に従うことができた。悲劇でもなく、惨(みじ)めな失敗でもない。神の現実を信じ切った人モーセの、満ち足りた祈りであり、神はその祈りを聴(き)かれたのだ。

 

------------------------------------------------------------------------------------------------------

 

 申命記 第2回「巡礼の世を歩む」             瑞浪伝道所 2020年4月 学び資料 

 

    申命記2章1~15節                        代理宣教々師 小野静雄

 

 

⑴ イスラエルの民が味わった荒れ野の40年が、どれほど過酷な旅路であったかは、出エジプト記の記録に明らかである。モーセは、改めてここで、荒れ野の旅路を回想する。私たちも、この旅路の非常な困難、イスラエルが直面した試練の重さを考えないわけにはいかない。カデシュ・バルネアを出発し、ゼレド川を渡るまで38年かかった、と14節は語る。ゼレド川は、死海の最南端の場所で、東から死海に流れ込む川である。この川によって、エドムの土地とモアブの地が分かたれている。1章2節で、神の山ホレブ(シナイ山)からカデシュ・バルネアまでの旅程を「11日の道のり」と報告している点と比較すれば、カデシュ・バルネアから死海南端に達するまでの期間が異様に長いことに気付く。もちろん、出エジプト記も申命記も、この異様さに気づいている。荒れ野の旅の大部分の日数は、死海の南の土地でほとんど空費されたとも言える。この38年の間に、モーセと共にエジプトを出た「前の世代の戦闘員」(14)はすべて死に絶え、一人もいなくなった。こうして、神の意志、神の決意は、まさに歴史のなかで実現する、それが聖書の歴史理解の重要な部分である。

 

 荒れ野の旅路の大半は、イスラエルがその不信仰によって神の裁きを受けた歳月であった。旅路のほとんどが、神の裁きの御手から重圧を受け取る日々であった。ここにイスラエルの歴史の深みと苦しみがある。選ばれて生きる民の任務は、恵みの大きさに比例して重い。そして、このような厳しい歴史を通して、ただ神のみ旨だけが自らを貫き、歴史の真実の支配者が神であることが明らかにされる。つまり申命記は、人間のあらゆる思いにまさる神の意志と計画が、歴史を造り歴史を導くことを、イスラエルの民に教えようとしているのである。古い世代が経験した苦難から、新しい世代の民が正しく学ぶことを求めているのである。

 

⑵ 荒れ野の旅路は、イスラエルの民がいかに不合理で不器用な歩みを続けたかを示している。その不器用さの背後に、神への不従順という罪が横たわっていることは言うまでもない。38年のあいだ、彼らはほとんど前進していない。荒れ野と山地を、いたずらにさ迷ったと言っても過言ではない。「長い間セイルの山地を巡った」(1)。「既に久しくこの山地を巡った」(3)。「巡る」という言葉は、同じ場所をぐるぐる回るという意味合いである。一つの方向に進むことができず、同じ場所を右往左往してきたのである。言葉を換えれば、神が示された約束の地を見失っている。約束の土地を忘れてはいないが、そこを目指して立ち上がる信仰を失っているとも言えよう。ここに、神に対するイスラエルの関係、それがどんな問題と病を含んでいるかが明らかになる。神の言葉への信頼と服従から離れたのである。どこかで曖昧な信仰に安住し、38年もの堂々巡りを続けてしまった。私たちへの問いかけでもある。

 

そうした堂々巡りを止めて、目的地を目指そう。この呼びかけは、神からの招きであり励ましである。「北に向かって行きなさい」(3)。このように方向を定めてくださるのは神である。人間の側では停滞し迷い続けねばならない。人は真実な決断ができない場合が多いからである。人が低迷している間に、突然、導きの声が届く。ここに信仰の原理、恵みの消息がよく現されている。神に従わないままであれば、同じ場所に低迷するほかにない。けれどもそのどん底のような状態へ、神の言葉が届くとき、私たちも低迷する信仰からようやく抜け出ることができる。

 

⑶ イスラエルの最後の旅は、エサウの領地とモアブ(ロトと子孫に与えられた土地)を通らねばならない。しかし、これらの土地は「足の裏」で踏めるほどの場所もイスラエルには与えられない。イスラエルにはイスラエルの継ぐべき土地がある。これが重要な原則である。また「聖戦」と呼ばれる戦いのことを考える際にも重要な意味をもつ。「聖戦」の問題は、聖書の読者に大きな問いを投げかける。しかし、現実のイスラエルの歴史をみると、「聖戦」が認められる時代や範囲は、きわめて限られていたことが分かる。イスラエルの歩みが、いつも聖戦という血なまぐさい戦いに明け暮れていたような誤解は、はっきり拭われなければならない。

 

 この点でも、エサウやロトの子孫に与えた土地は、一片たりともあなたがたに与えない、という厳しい原則は重要である。主なる神が与えない、と語られた土地には、イスラエルは所有権を持たない。神が許可しないかぎり、イスラエルは土地所有をしない。人間の野心や力で、ほしいままに土地を所有することは神の御心ではない。こうして土地の所有についての神の原則は、約束の地に入る前からはっきり定められていたのである。

 

⑷ 神が与えられたものだけを、素直に受け取ることを学ぶ。それが所有についての訓練である。もちろん、イスラエルも一つの民族である限り、自分の居住地をもつことは当然の必要である。神はその権利を保証しておられる。しかし、人間の野心や力にまかせて欲望を野放しにすることは、神の民に決して許されていない。神が与えないものを、人は望んではならない。これは信仰に生きる私たちにとっても、重要な態度と言える。信仰生活は、自分が欲しいと願うものを自力で勝ち取るものではない。自分の力を過信するとき、信仰は神を見失う。「わたしたちの強さは、あなたのものであるとき、強さになり、わたしたち自身のものであるとき、弱さになります」(アウグスティーヌス『告白録』4巻16章)。

 

荒れ野の生活は、全体として神の厳しい裁きに貫かれた歴史である。38年の間、神の厳しい御手がイスラエルの上に置かれていた。しかし、この訓練と裁きの年月にも、神の恵みと労りがイスラエルを離れることはなかった。「あなたの神、主は、あなたの手の業をすべて祝福し、この広大な荒れ野の旅路を守り、この40年の間、あなたの神、主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった」(7)。

 

ここでの神の守りは、第1にその広大さに現わされる。38年の間、イスラエルは迷っていたが、神は彼らの歩む道を、一日も見失ってはおられない。第2にその歴史的な長さである。直接、言及されるのは「38年(あるいは40年)」である。しかし「モアブ」と「アンモン」、つまりロトの二人の子とその子孫(創世記19章36節)に対して、神が誠実に約束を果たそうとされる姿勢が心を打つ。ロトの子らにまさって、アブラハムとその子孫を顧みてくださることは言うまでもない。しかし、エサウやロトのように、「約束」の周辺に生きる人々が、早々と定住の地を与えられたこと。他方、約束の恵みを受け継ぐ「正統」な子孫イスラエルが、荒れ野の40年という苦しく困難な現実の中にさ迷う様子は、神の御計画の不思議さをまざまざと教えている。「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(ヘブライ12章6節)。

 

⑸ 厳しい放浪の時代にも、神の恵みがイスラエルを離れることはなかった。周囲の人々からは、あれが神の民の人生か、と侮られることもあった。神の民の苦しむ様に比較して、神なしに生きる人々が自由闊達な人生を謳歌しているように思われることも稀ではない。そうした心の嘆きと訴え、祈りと叫びは、詩編のなかで幾度も繰り返されている。神を信じる人々の歴史と経験は、いつも矛盾があり悲哀があり叫びがある。それにも拘わらず、神の導きによる民の歩みは、最も深く真実な部分では、恵みと憩いによって覆われている。「この40年の間、あなたの神、主はあなたと共におられた」。これが現実であり真実である。

 

荒れ野の旅は、神が我らと共におられる、という真理を学ぶ学校であり教室である。荒れ野の生活は、見えるものに依存できない。神以外の誰かに頼ることができない。そして私たちの地上の生活も、荒れ野の厳しさと苦難が伴うことは避けられない。私たちの渇きを癒すのは、最終的には、いかなる人間の慰めでも力でもないことを、私たちも学習する。荒れ野の旅路は、私たちの視線を上へと導く。私たちの故郷は、この地上にないからである。荒れ野の旅路は、私たちに祈ることを教える。私たちを支える神は、目に見える像ではなく、霊と真実をもって迫る生けるお方だからである。

 

                

------------------------------------------------------------------------------------------------------

 

                   申命記 第1回「神が重荷を負われる」  2020年3月1日                    

                                 1章1~18節        代理宣教教師 小野静雄

 

 

⑴ 申命記は、普通に「モーセの五書」と呼ばれる5冊の書物の最後に位置する。この書物の主な部分は、イスラエルの指導者として出エジプトの旅路を導いたモーセが、指導者としての歩みを閉じようとする直前に、イスラエルの民に語った「説教」から成る。それで申命記という書物の表題は、元のヘブライ語聖書では「言葉」と名づけられている。「言葉」という書名は、申命記という書物の性格を知るために、非常に適切なものと言わねばならない。

 

 

申命記は、モーセの説教でありモーセを通して神から与えられた律法である。モーセによる説教は、もちろん彼の時代のイスラエルの民に向けて語られたものである。従って、これらの説教には明らかに時代的な制約があり、時代と社会に固有の性質が刻まれている。申命記の説教のすべての言葉が、どの時代の神の民にも同じように当てはまる普遍的な原則であると考えることはできない。説教は、どの場合にも特定の時代の中で、一定の制約と条件の中で語られる。一つの時代に向けて語られた言葉を、別の時代の中を生きる神の民に当てはめるには、説教の言葉を熟考し、それらの言葉が今の時代と神の民の状況に、どこまで適用されるか、どこまで適用されないかを、祈り深く見極めることが求められる。申命記という書物を学ぶ場合にも、そのような霊的な姿勢が不可欠である。

 

 しかし、いずれにしてもこの書物を通して最終的に語るのは、単にモーセという人間的な指導者ではない。生ける神がここで語っておられる。従って、申命記の言葉から、すべての時代に生きる神の民が、時代を隔ててなお変わらない御言葉の指針を聴き取ることは、極めて重要である。そのように注意深く聴くことこそ、神の民に委ねられた使命であり召命である。神の言葉への信頼と従順が、ここでも聖書を正しく読み取るための最大の方法であり精神なのである。

 

 ⑵ 元のヘブライ語の書名は「言葉」であるが、ほかの翻訳聖書はいずれも、ギリシャ語訳聖書の表題をそのまま写し取ってきた。その表題は「第二の律法」という意味をもつ。申命記17 章18節に「レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り」という文言がある。70人訳と呼ばれる最も権威あるギリシャ語訳旧約聖書が、「律法の写し」を「この第2の律法」と訳したことから、申命記という書名が定着した。日本語聖書も、文語訳時代から「申命記」という表題をつけてきたが、それは当時の聖書翻訳作業に際して、参照された「漢訳聖書」がすでに「申命記」という表題を持っていたことに由来する。「申」は「重ねる」の意味をもち、「命」は「律法」である。つまり二つ目の掟、重ねての律法、という意味合いである。

 

70人訳以来のこの表題は、「律法の写し」という本来の意味を誤解したもの、と言われてきた。しかし、必ずしも誤解と決めつけることができないのでは、という近年の見方もある。岩波書店が企画出版した、20分冊からなる翻訳で、申命記を担当した鈴木佳秀氏は、「第2の律法」という翻訳が、「意図的」であった可能性を指摘している(480ページ)。申命記は、モーセの5つの書物の最後に位置し、ここに記されている律法は、シナイ山でモーセに授けられた十戒を初めとする最初の(第1の)律法に対する掟として読まれることを意図したかも知れないというのである。考えてみれば、第1の律法を与えられて以来、イスラエルの民は数えきれないほどの背きの罪を犯してきた。いま約束の地に入ろうとする時にあたり、今度こそ、神に向かってつぶやくのをやめ、神への新たな信頼を学び実行してほしい。そのような「説教者」モーセの願いを酌めば、「第2の律法」という理解もあながち誤解とばかりは言えないのである。

 

⑶ ここでは特に、9~18節を中心に考えたい。モーセは、イスラエルを治める自分の能力、体力の限界をかえりみて、民の中に「隊長」という制度を置いたことを振り返っている。膨大な数に膨れ上がったイスラエルを、一人で導くことは到底不可能である。その事実をモーセに指摘したのは、モーセのしゅうと、ミディアンの祭司であったエテロという人である(出エジプト記18章14~27節)。エテロははっきりモーセのやり方を批判した。「あなたのやり方は良くない」(17節)。エテロの示唆に従い、モーセは民の中から「賢明で思慮深く、経験に富む人々」を選び出す。こうして1000人隊長、100人隊長、50人隊長、10人隊長を選び任命した。

 

こうすることによって何が準備されるか。何よりも、民の中に秩序が生まれることである。イスラエルの民の制度化を促した祭司エテロは、はっきりした意図を示していた(出エジプト記)。通常の事柄については、民の指導者が自らの判断で事柄を定める。重大な事柄についてはモーセの決済を求める。民を徹底して組織化するのである。そうすることで、モーセ一人が全てのことを担う、という偏った指導の在り方を緩和する。賢明さと経験。それは民の様々な人々の間に散在しているのであり、モーセ一人がそうした賜物を独占しているわけではない。互いの間にどのような賜物があるかを、日ごろから見極め、賜物と召命を分散しておくことは、民の集いが、組織としての健全さを保つためにも非常に重要である。さらに重要なことは、やがてモーセその人は民の前から去ってゆくという事実である。この疑うことの出来ない現実に対して備えることも、指導体制の分散という知恵の背後にあった意図であろう。

 

⑷ 荒れ野の旅路がついに終わる。それに先立ってモーセは、イスラエルの民の歴史に現れた数々の不信仰、不服従を思い起こさせている(19節以下)。申命記が、第2の律法、という意味をもつ一つの重大な理由は、荒れ野の40年におけるイスラエルの背信の歴史である。申命記は、出エジプトという恵みの歴史を背後にし、そして荒れ野の40年の記憶をまざまざと振り返る。やがて始まる約束の地での信仰には、荒れ野の旅路とはまったく性質も規模も異なる誘惑と試練の歴史が待っている。このような過去・現在・将来という3つの時の中間にあって、申命記は時間の中を旅する神の民に、神への信頼と服従という霊的な展望を示そうとしているのである。

 

過去・現在・将来の全てに係わるのが、信仰と不信仰の戦いである。イスラエルの民の歴史は、神によって導かれ支配される特別な歩みである。この歴史を支配するのは、人間の計画ではなく神の導きであり摂理である。一言でいえば恩寵の作用、恩寵の支配がその全体を貫いている。しかし、恩寵の作用は、同時に民の信頼と服従の決断を、つねに調達するのである。民の不従順という問題への相応しい解決なしに、荒れ野の40年が推移したのではない。それは、「約束の地」ということをどう受け取るかに、端的に現れている。

 

8節では、「与えると誓われた土地」と言われ、神が与えるという主権的な決意が明らかである。ところが25節では、モーセが派遣した偵察隊の報告として「主が与えてくださる土地(与えようとされる/分詞形)」で語られる。神の誓いを、どのように受け取るか。与えていただいたのか、与えようとされるのか。神の側からは、すでに与えたのである。しかし、民はそれを明確な決断的信仰で受け取っていない。与えられたようでもあり、与えられていないようでもある。そのような微妙な場所で、信仰に生きるか、退くか、という重大な分岐点が出現する。

 

 

⑸ しかし、私たちは失望しない。「あなたちがこの所に来るまでにたどった旅の間中、あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださるのを見た」(31)。民がその試練の中を進んだ日々、神は自分の子を背負う父のように、イスラエルと教会を背負ってくださった。神の背に負われて、もはや私たちの足跡が見えないほどに、私たちは支えられて歩んだのである。

 

 

疑いを容れないはずの恵みが先行している。にもかかわらず「あなたたちは信じなかった」(32)。このように人間の不信仰は徹底しており、私たちの不従順は手が込んでいる。それでも失望しないで歩めるだろうか。信仰は最終的には、どこまでも主の恵みであり、赦しであり、憐れみである。いかなる人間の義も、信仰の旅路を完了することはできない。私たちの不信仰という、嘆かわしい重荷を、神は自ら背負ってくださる。そのために、独り子キリストを与えるほどの愛と決断を、自ら下していただいた。

 

 

私たちの不信仰を、よくよく分かった上で、なおも私たちを憐れみ愛して下さる。明確な信仰に立てない一人の父親に、主イエス・キリストの励ましが届いたとき、父親は告白した。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(マルコ9章24節)。体も心も疲れ果て、もう祈ることもできない瞬間に、神さまの方を向いて顔を上げる。信じない者になお信仰を求めてくださる愛の主が、私たちを待っておられるのである。