「キリストのご訪問」                          2023 年 5 月 7 日 瑞浪伝道所礼拝

     ルカ福音書 19 章 1~10 節

 

今日の聖書で、キリストが一人の人と出会っておられる。ザアカイという人である。聖書の信仰は、 出会いの信仰だと言われる。神との出会いである。神との出会いが、人との不思議な出会いによって準備 されるということもある。いずれにしても、出会うこと。出会いを大切にする。出会いを喜ぶ。出会いの 中に真実を見いだす。それが聖書が語る信仰の重要な道筋である。言葉を換えれば、私たちは本当の出会 いを願っている。人は、真実な出会いに飢えている。

 

今朝の聖書の人物。ザアカイという人も、やはり本 当の出会いに飢えていたのではないか。 この人はエリコという大きな町で、徴税人の頭であった。エリコという町は、東西への道、南北への 道、二つの大きな道が交わる場所にあった。人と物が、ここを通って流通する。その意味では、エリコと いう町は、人が出会い、物が流れる。出会いという点では、大変恵まれた場所にあった。ザアカイは、こ の出会いの町で、大変成功している人である。金持ちである。しかし、まだ人生を揺るがすような出会い を知らない。本当の出会いを、待ち焦がれていた。「イエスがどんな人か見ようとした」。「イエスがどん な人か」。それを知りたいと思った。

私たちがこうして、日曜日の礼拝に集まってくる。ここで聖書を一 緒に開く。それは何のためか。「イエスがどんな人か」。それを探求しているのである。聖書の中心人物で あるイエスという方は、一体どんな人か。それは「キリスト教とは何か」という質問と同じである。「イ エスがどんな人か」。それは信仰を求める人の合言葉である。

 

ザアカイという人について、すでに世間では相場が決まっていた。徴税人の頭。そして金持ちである。 イエスは、18 章 25 節で言われた。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易し い」。弟子たちはこれを聞いて驚いた。「それでは、だれが救われるだろう? 」。イエスはそれに対して、 「人間にはできないことも、神にはできる」と答えておられる。ザアカイについて、世間の人の考えでは、 一番救われる望みの薄い人である。徴税人の頭は、悪人、罪人そのものと考えられた。自分もユダヤ人で ありながら、同じユダヤ人から税金を取り立てる。その税金は、ローマの国の収入になる。何よりも、徴 税人は、悪賢く取り立てて、自分の腹を肥やす。ザアカイも、あとでそのことを認めている。 ザアカイを見る世間の目は冷たい。はじめから、この人間はいかがわしいと決め付けている。悪い人、 穢れた人、そういう目で人々はザアカイを見ている。先入観である。徴税人に救いはない。それこそ、ら くだが針の穴を通るよりも難しい。

 

しかし、イエスという方は、ザアカイを決して色眼鏡で見なかった。 キリストの目に映ったザアカイは、「失われた人」だった。悪いやつとか、ズルイ人間という、世間で言 われているザアカイの姿とは別のところに、ザアカイの真実の姿を見ておられる。「人の子は、失われた ものを捜して救うために来た」とキリストは言われる。失われた人ザアカイ。ザアカイ自身は、自分のこ とを失われた人とは思っていない。自分は、努力して金持ちになった。世間からどう見られようが、自分 は自分で生きている。しかし、そのザアカイが、イエスを見たいと願っている。 ザアカイは、イエスを見たいと思ったが、背が低くて見えなかった。それで、先回りして「いちじく 桑の木」に登った。人から蔑まれているとはいえ、ザアカイはこの町の有力者である。お金持ちである。 すでにかなりの年齢にもなっていた。そういう人が、走っていって木に登る。これは恥ずべきことである。 はしたないことである。

 

しかし、ザアカイは、なりふり構っていられない。イエスを見たい、イエスを知 りたい。その一つのことに夢中になっている。我を忘れている。この我を忘れたザアカイの様子を、キリ 2 ストがどんなに喜ばれたか。神を求める人生、信仰に生きようとする人間。その大切なあり方を、ザアカ イははっきり示している。取り澄ましてはいられない。夢中になってしまう。夢中になって初めて、本当 の出会いも起きる。 ザアカイが、夢中になっている。そして、ザアカイと出会われたキリストも、いわば夢中になってく ださる。今朝の聖書の最後の言葉(10 節)、「人の子(キリスト)は、失われたものを捜して救うために 来たのである」。ザアカイは、失われた人だった。人生を見失っていた。自分を見失っていた。神との出 会いに憧れながら、そのチャンスが一度もない。人生の建て直しを願っているのに、誰も耳を傾けてくれ ない。ザアカイに、新しい人生などあるはずがない。そのように決め付ける人々だけ。ザアカイの苦しい 心、淋しい心に気づいてくれる人はいなかった。

 

ザアカイが登っている木の下に来ると、キリストは立ち止まってザアカイを呼ばれた。「ザアカイ、 急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。急ぎなさい。今日、というこの日の出 会いを、大切にしてほしい。これがキリストの心、神の心である。急ぎなさい。これは神さまがせっかち なのではない。神様の恵み、神の愛は、もうあなたに届いている。神の恵みの中に、ためらわずに入って 来なさい。これが「急ぎなさい」という言葉の意味である。ザアカイは、勿論、この素晴らしいチャンス を、取り逃がすつもりはない。驚いて木から下りた。信じられない出来事が起きようとしている。 ザアカイ、急ぎなさい。今日はぜひ、あなたの家に泊まりたい。

 

キリストが、ザアカイのような人の 家に泊まる。そんなことを考える人は誰もいない。誰も予想しなかったことが始まる。私たちが、聖書を 開き、信仰の扉をたたく。それも、誰も予想しないことである。何よりも、私たち本人が、決して予想も 計画もできないことが始まる。聖書と出会う、神さまに心を向ける。それは、まったく私たち自身が予想 しなかった出来事である。だから、神との出会いは、神さまの導きである。神が私たちの心に働いてくだ さった。教会に行くなど、考えもしなかった私たちに、教会への道を示してくださる。 「あなたの家に泊まりたい」。これが、キリストの訪問である。

 

私たちの人生にも、キリストの訪問 がある。ある日、思いがけない形で、キリストが私たちの人生の扉を叩かれる。この訪問を受けなければ、 ザアカイの人生は光のないままである。キリストの訪問を受け入れる。そのとき、ザアカイの人生に変化 が生まれる。変わらないと思われる人生が変わる。ザアカイの人生にも、解決されていない問題があった。 自分の生活はこれで良い、と納得できる生活から遠かった。 一家の主人が、自分の生活に納得していなければ、その心配や不満は、家族全体に影響する。

ザアカ イは、一面では人生の成功者である。お金持ちになった。お金だけで問題が解けるなら、何の悩みもない。 しかし、ザアカイの生活には、光もあれば影もある。どの人の生活も同じである。何から何まで、一つの 不足も無い。そういう人生はあり得ない。何もかも満足という生活もあり得ない。一人の人生もそうであ り、一つの家庭、家族の歩みもそうである。 ザアカイは、キリストの訪問を受けた。そして、自分の人生を、まったく新しく見つめるチャンスを 与えられた。

今までのザアカイは、人をごまかし、世間を欺いて、お金を溜め込んできた。「ザアカイ」 とは「清い人」という意味である。しかし、誰もザアカイが清い人だとは思っていない。ザアカイ自身だ って、自分を清い人間だとは、思えなかった。しかし、このように生きるほか仕方ない。他にどんな人生 があるか。ある意味で開き直っている。

 

しかし、キリストが訪問してくださった。そして、全く新しい体 験、つまりイエス・キリストを自分の家に宿すという体験が始まった。「罪深い人間の家にキリストが入 って行った」。これは、エリコの町中の話題になる。とんでもない悪人の家に、キリストが入って行った。 ザアカイの驚きは、どれほどだったか。もう開き直る必要はない。強がって見せる必要もない。

 

ザアカイがキリストの訪問を受け入れた。つまりキリストを信じ、神様を信頼する人になった。そこ で何が始まったか。生きる目当てが変わった。8 節で「ザアカイは立ち上がった」とある。

立ち上がった。 新しい人生が、ここに開けた。貪欲にお金を貯めるだけの生活が、変化した。神さまに愛されている。神 さまが、自分のすべてを知っておられる。それが分かったとき、自分だけ良かれ、という生活から自由に される。人のことを考えてあげる人になる。誰かの苦しみに心を開く人になる。

この変化は、明らかに一 つの奇跡である。自分が、これまで蓄えた財産の半分は、貧しい人に施します。だれかから騙し取るよう なことをしていれば、それを 4 倍にして返します。 「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」。アブラハムは、聖書で最も 尊敬される人。信仰の父。それで、ユダヤ人は自分がアブラハムの子孫であることを誇りにした。勿論、 ザアカイがアブラハムの子だと認める人は誰もいなかった。

 

しかし、キリストは認めてくださる。あなた は神さまに愛されている。あなたは、神さまに見いだされた。あなたはもはや、失われた人ではない。キ リストは、この人を捜して、ついに見つけてくださった。神様の愛の中へ、連れ戻してくださった。 これが、イエス・キリストの救いである。最もアブラハムの子どもらしくない人間。しかし、この人 がアブラハムの子だ、とキリストは宣言される。つまり新しい人として発見される。見つけ出してくださ った。

 

聖書の中に、キリストが失われた一匹の羊を探す話しがある。失われていた一匹。そのまま忘れら れても仕方ない。しかし、キリストは、仕方ないでは済まさない。失われているものを、どこまでも捜し てくださる。エリコの町で、ごった返す群衆の中で、ザアカイ一人を、探しておられた。失われた人を、 決してキリストは忘れない。神は、私たちのことを忘れていない。 人からは、忘れられても仕方ない。見失われても、取り返しがつかない。一度失ったら取り戻せない ものがある。失われた家族、失われた記憶。失われた仲間たち。人間の力では、どうしても取り返せない ものが、現実にある。それが悲しい。それが悔しい。何かを失うという問題は、決して小さくない。失わ れたままの人生、失われたままの私。私たちの人生も、キリストに出会うまでは、流されている人生、漂 流していた人生ではないか。失われたまま、このままで人生を終わってよいのか。それでよいか、という 問いかけを、今こそ私たちは受け止めなければならない。

 

キリストは言われる。私が来たのは、失われた ものを捜して救うためだ。キリストは、失われたものを取り戻してくださる。傷ついたものを癒してくだ さる。失われた人間の典型であったザアカイ。この人を、失われたままにしておかない。それは神様の御 心ではない。失われたものを見つけるまで、探しておられる。そして神様は、私たちを必ず見つけてくだ さる。 ザアカイの人生、ザアカイの家は、明るさを取り戻した。

そこでどうなるか? 神様の前で、そして 人の前で、謙遜になり素直になる。私のように小さな者を、神様はありのまま受け入れてくださった。こ の「ありのまま」ということが、神様の恵みである。私たちの存在を、丸ごと受け入れてくださる。何も 隠し立てする必要がない。私たちの生活の喜びも悲しみも、神さまから隠れてはいない。喜びにも悲しみ にも、それぞれ大切な意味がある。そこに生まれるのは、大きな安心である。心と人生の平和である。

 

キリストは、ザアカイに何の注文もなさらない。「ああせよ、こうせよ」と言わない。ただ、一晩泊 めてほしい、と願っただけである。聖書の信仰は、この単純さが鍵である。キリストを受け入れたら、そ こからおのずと変化が始まる。自分も変わり、家も変わる。人生の見通しが明るくされる。そのような変 化が、私たちの生活の中で、静かに、しかし確かに始まっている。それは、神さまが、今も私たちの生活 の中で働いておられる印である。神様は遠くない。普段の生活の中に、新しい恵み、深い感謝と喜びをも たらすために、今日も、明日も、働いておられる。

 

 

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  第96回「ノアの日と同じ」                       2023年3月5日 瑞浪伝道所礼拝

      ルカ福音書17章20~37節

 

  聖書の信仰に生きることを、私たちは願っているし、その信仰が確かなものになることを強く願っている。そのような私たちに、躓きとなる教え、試練となる教えの一つは、やはりキリスト再臨という信仰であると思う。使徒信条を唱えるときにも、今は天におられるキリストが、時至れば「かしこより来たりて、生けるものと死ねるものとを審き給わん」という部分。キリスト再臨と最後の審判。あなたはこれをどのように信じていますか。そう問われて、はっきりと答えることは容易いことではない。しかし、これは聖書の語る信仰にとって、大切な基本の事柄である。

 

 この礼拝の中で、聖餐の礼典に招かれる。そこで朗読される聖書の、コリントの信徒への手紙一11章。パンを食べ、杯をいただく。その意味は何か。その目的は何か。「主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。聖餐というこの礼典、この不思議な食卓は、イエス・キリストが来られることを待望している。キリストが来られることを待っている。そういう人々のための食卓である。今朝の聖書で、キリストは言われる。「神の国はあなたがたの間にある」。神の国は、決して遠くに出かけて行って捜すべきものではない。あなたがたのただ中にある。私たちの間に、私たちのただ中にある神の国。それを味わう一つの方法、一つの手立てが、礼拝であり祈りであり洗礼であり聖餐である。しかし、聖餐は確かな恵みであるが、恵みの完成ではない。「主が来られるときまで」という限定された食卓である。いわば、聖餐の食事には賞味期限がある。キリストが再臨されて、神の国が完成すれば、そこには最早、私たちが今味わっているような聖餐は必要がない。今ささげているような礼拝は、そこでは終わりを告げる。

 

 すでに私たちの間にある神の国。そして、礼拝も洗礼も聖餐ももはや必要のない、完成された神の国。私たちは、既にある神の国と、やがて来る最後の完成の間で生きている。それが、キリストの再臨を待つ信仰である。この再臨を待つ信仰は、それ自身が、一つの試練である。一つの問いかけであり試みである。あなたはキリスト再臨を、どのように待っていますか。そのように問われて、淀みなく答えることのできる人がいるだろうか。

 

 その証拠に、ここで弟子たち自身が、神の国の完成ということを、学びそこなっている。21節で、神の国は「ここにある」「あそこにある」と言えるものではない、とキリストは言われる。23節でも、「見よ、あそこだ」「見よ、ここだ」という人の声に釣られてはいけない、とキリストは戒めている。ところが、話を全部聞き終わった弟子たちは、37節で「主よ、それはどこで起こるのですか」と質問している。これでは、振り出しに戻ることになる。いつですか? どこですか? この質問を、私たちはどうしても止めることができない。再臨という信仰は、このような意味で、躓きであり試練である。

 

 結局、弟子たちもキリストの言葉が呑み込めない。それでキリストは、最後に37節で語られる。これも謎めいているが、およその意味は掴めるのではないか。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ」。はげ鷹という鳥は、普段は集まらない。しかし、野原や砂漠に「死体」があれば、そこに集まってくる。どういうことなのか。主イエスの語りたいこと。それは、必要な条件が整えば、事は必ず起きるということである。死体があれば、普段は集まらない鳥たちが集まってくる。

 

 私たちも、今は神の国の完成ということを、本当に心の底から納得して分かるということが困難である。キリスト再臨というこの信仰に、揺るぎもしないで立っている、と言える人はあまりいない。しかし、神様は色々な条件を、一つ一つ整えてくださる。歴史の歯車は、私たちが気づかない間に、たしかに巡っている。そして、神さまの条件が整えば、事は一気に始まり、一気に完成すると言われる。

 

 一気に始まり、一気に完成する。その様子を24節では、「稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れる」。稲妻のひらめきを、自分の目で確実に捉えることはできない。一瞬に、全てが始まり全てが終わる。それが「人の子の日」である。人の子。これはキリストがご自分を指して語られる独特の言葉である。22節では、キリストが弟子たちに、これも不思議な言葉を語っておられる。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう」。できないだろう。これは曖昧な推測ではない。見ることはできない、という断定である。キリストが、神の国の恵みを携えて最後に現れる日。その日を、一目でも見たい。それは、弟子たちとして、当然の願いである。見えるものなら、私たちも見たい。

 

 人の子が現れる最初の一日。せめてその一日だけでも見たい。なぜそのような気持ちになるのか。はっきりした理由は分からない。ある聖書の学者の説明に、なるほどと納得するものがある。それは、弟子たちが、地上の信仰の中で味わう苦しみという問題である。伝道に伴う苦しみ。信仰を保つことに伴う試練。試練のない信仰はない。特に、弟子たちはこれから、キリストの十字架という試練をくぐり、やがて、キリストは天に戻って、見える姿かたちでは主イエスにお会いできない。そういう中で、伝道し、教会を建て、神の国の前進のために生涯を捧げるのである。

 

 弟子たちが味わう苦難の日々。それをキリストは、予測しておられる。せめて一日でも、人の子の勝利、キリストの栄光を見上げて、地上の生活を喜びたい。しかし、その日は、稲妻のように来て、一気に事は決着する。もはや苦しみを嘆く時間もないほどに、すべてを造り変えてしまう。その意味では、人の子の日を見ることができない、ということは大きな慰めである。

 

 キリスト再臨が、私たちの信仰にとって、一つの重大な謎である。あるいはこれを信じきることは、一つの試練である。何度も、同じことを申し上げている。長い信仰生活を続けた人にとっても、再臨というこの主題が試練であることは、一向に変わりない。信仰を求めている人々にとっても、この主題は謎めいていて、本当にこれを信じきることができるか、と胸に手を当てて問わずにいられない。なぜそうなのか。

 

 一言でいえば、日常生活の重みに、私たちがいつも引きずられている。キリストはここで、非常に具体的な例を挙げている。「ノアの時代」「ロトの時代」という二つを挙げている。ノアの時には、洪水が世界を水に沈めるという、破局が襲い掛かった。ノアの洪水が、本当に世界中を覆ってしまったのか。それとも、これは一部の地域で起きた、地域的な洪水だったのか。そういう詮索は、あまり意味がない。洪水によって滅びた人々が現実にいる。ロトの場合を見れば分かるように、これも世界の滅びではなかった。ソドムという一つの町が、神の審判によって滅び去った。

 

 ノアの人生は、舟を造ることに集中した。何十年もの間、ノアは巨大な箱舟を造り続けていた。それ自体が、警告であった。人々は、ノアが箱舟を造っている姿を、どのように見ていたか。この大地が、水によって覆われる。そのようなたわけたことを、信じる人々は殆どいなかった。「人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた」。食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり。つまり日常の生活である。ノアとその家族は、日常の生活をしなかったのか。そんなことはない。箱舟を造る生活と平行して、もちろん日常の生活は続けているのである。ロトの場合も同じである。「人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていた」。ロトも同じように、普段の生活をしていたのである。

 

 ルターの有名な言葉がある。「たとえ明日、キリストが再臨されるとしても、私は今日、リンゴの苗を植えよう」。日常の生活と、キリストを待つ生活は、ことごとく対立するわけではない。しかし、一つ重大なことは、この日常の生活は、やがて必ず終わりが来るということである。私たちの普段の生活が、いつまでも終わらないかのように生きてはならない。「神の国はあなたがたの間にある」。キリストがこう宣言されたからには、そうなるのである。私たちの日常の感覚では、キリスト再臨ということを、はっきり信じることは実に試練である。この信仰は、どこかに、ぼんやりしたものが漂っている。それに比べて、日常の生活は、極めて現実的である。生き生きとしている。確かな手ごたえがある。

 

 買ったり、売ったり、植えたり、建てたり。しかし、それはいつまでも続くわけではない。終わりが来る。終わりが来ないかのような錯覚に負けてはいけない。その錯覚に、不幸にして負けてしまった人。その悲しい一人が、ロトの妻である。ソドムの町が、神の裁きを受けたとき、神の御使いがロトとその家族(ロト、妻、二人の娘)を、ソドムから連れ出してくれた。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない」(創世記19章17節)。しかし、ロトの妻は振り返った。そして、この人は塩の柱になった、と聖書は物語る。チラッと振り向いただけで、塩の柱になった。いかにも酷いと思う。しかし、この振り返る、振り向く、ということは、この人の人生のあり方全体を語っている。救いの確かさと、残してきた暮らしの喜び。その二つが、一瞬にしてこの女性の心をよぎったのではないか。残してきた自分の暮らしを、このまま捨てることが出来ない。

 

  25節のところで、キリストは少し唐突な感じで、御自分の苦しみのことを予告しておられる。「人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている」。これは強い表現である。必ず排斥される。必ず苦しみを受ける。今の時代。つまり、今の時代というものを信じている人々。今の時代に属していることを、ただ一つの楽しみ、ただ一つの確かさと考えている。そういう人生の理解に立つと、キリストとか神とか、そういった存在は必要でない。必要でないどころか、邪魔になる。排除すべきもの、目障りなものである。ロトの妻は、そのようにして、神の言葉、神さまの警告を軽んじてしまった。神さまによって生きる道ではなく、「自分の命を生かそう」という道を選んだ。神によって生きるか、自分自身の力で生きるか。そこに大きな違いが生まれる。

 

 その違いは、ロトの家族の間でも、はっきり現れてしまった。一つの寝室に、二人の男が寝ていると、一人は連れて行かれるが、他の一人は残される。普段の生活の中では、この区別ははっきりしなかった。二人の女が一緒に臼を引いている。昔はどこの農家でも見られた風景である。つまり日常の生活。そこには大きな違いがない。違いはあっても目立たない。しかし、ある日、二人の間に、隔ての壁が立ち上がる。普段は、会社の同僚であり、普段は親戚付き合いの間柄である。しかし、ある日、ノアは箱舟に入る。ある日、ロトとその家族はソドムの町から出てゆく。最後まで同じ道ということはない。自分の命を時分で救おうという生活か、神さまに自分を委ねて、自分の命は神さま、あなたに委ねましょう、という信仰か。

 

 「一人は連れて行かれる」。連れてゆく、という言葉は、神の国へと連れ去るということである。同じ言葉は、ヨハネ福音書14章3節にある。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい。わたしの父の家には住むところがたくさんある。・・・行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て(再臨)、あなたがたをわたしのもとに迎える」。この「迎える」というのが、「連れてゆく」という言葉である。マタイ福音書1章24節では、夫ヨセフがマリアを「妻に迎え入れた」。私たちを迎えて、一緒に住もうとしてくださる。これがキリストの再臨である。私たちのために場所の用意をするために、キリストは天に戻られた。それは、私たちを迎えて一緒に住むためである。

 

 「一人は連れて行かれ、一人は残される」とは、そういう意味である。そうすると、大切なことは何か。イエス・キリストによって、迎えていただきたい。そういう祈りと期待をもって、普段から生活することである。キリストを、普段の生活の中で排斥しない。キリストを迎えて、日常の生活に励む。聖書を読み、祈りながら、主を見上げながら、普通の通り生活をすればよい。ノアも同じようにして、箱舟に乗る準備をしていた。キリストが、やがて天の御国に私を迎えてくださる。そう信じていれば、信仰どおりのことが起きる。イエス・キリストが、必ず私を迎えに来てくださる。そう信じていれば、その人は、畑にいても、台所にいても、疲れて眠っていても、何をしていても、用意された永遠の家に、私たちを迎えてくださる。

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「勝ち負けなし」                    2023年1月の御言葉 瑞浪伝道所
     ルカによる福音書16章19~31節

朗読された聖書には、ふたつのまったく違った人生が、描かれている。この物語は、イエス・キ リストが語られた譬話である。有名な譬話といってよいと思う。しかし、のどかなお話しではない 。人が生きるとはどういうことか。人は何に向かって生きているか。上辺だけの人生、見せ掛けの 人生に、はたしてどんな意味があるだろう。今回の、東日本大震災をとおして、私たちは見せかけ に豊かさに、余りにも慣らされてきたことに、改めて愕然とする思いである。 揺るぎないものに見えた。見かけ上の確かさにすがり付いていた。しかし、津波によって、おび ただしい命が失われた。さまざまなものが、根こそぎ、流されてしまった。この喪失感は、言葉に はできない。震災以来、私自身も、あの大きな津波の余波のように、哀しみが、精神の喪失感が、 日々、心に押し寄せるのを感じている。心に押し寄せてくる、哀しみと喪失感、人生の不確かさ。 そのような人間の哀しみと嘆きに、聖書は一体、何を語ってくれるだろうか。 今日のキリストのお話は、とくに難しい話ではない。金持ちの男と、ラザロという貧しい病人。 ふたりの人生は、あまりにもかけ離れている。金持ちは、毎日ぜいたくに「遊び暮らした」。これは 、宴会をするとか、お祭騒ぎをする、という意味の言葉である。毎日毎日、宴会をする。そんな人 生が、ほんとうにあるだろうか、と私たちも考える。お金持ちというのは、それなりに一所懸命に 働く人だと思う。毎日、お祭騒ぎをしていては、蓄えなどできない。それが私たちの常識である。 しかし、これはキリストの譬話である。キリストは、この譬で、いったい何を示そうとされたのか 。毎日が宴会、毎日がお祭騒ぎ。そういう人生が、ほんとうに幸せなのでしょうか。むしろ人は、働 くことによって、生きる。働くことによって、人生は真剣なもの深いもの豊かなものになる。悩み も試練も増えるが、生きがい張り合いができる。

この金持ちには、人生の真面目さがない。人生が、とても厳粛なものである、という気持ちが失 われている。結果として、この金持ちは、人生の確かさを失い、いつも酔っ払っているような生活 を続けることによって、神様の言葉を聞く機会を失った。ただ楽しければよい、という考えで押し 通した。豊かさに酔っていた。自分もこれで大したものだ、という自己満足のなかで、酔っている 。自己陶酔、という言葉があるが、まさにこの金持ちは、自分自身に酔っていた。自分に酔ってい ると、真実が見えなくなる。この人の不幸は、金持ちだったことにあるのではない。金によって自 分の目が曇って、真実が見えなくなっていた。真実とは何か? 人が神なしではどんなに惨めであ るか、という事実である。それが見えないのである。人は神に向かって生きる、神から出て神に向 かう。この人生の中心が、見えなくなっていた。

この金持ちの門前に、ラザロという病気の人、貧しい人がいた。体中にできものがあり、貧しく て食べることにも窮している。そして、金持ちの家の門前に、横たわっている。横たわるという言 葉は、倒れ伏している、という言葉。自分では立ち上がれない。かなりの重病である。金持ちは、 毎日、遊び暮らして、宴会につぐ宴会。楽しみと悪ふざけ。ラザロは、病気で、動けない。犬がラ ザロのできものを舐めている。犬にも舐められる人生である。 今朝は『勝ち負けなし』という主題をつけた。人生に、勝ち負けというのが、いったいあるのか 。誰が勝ち、誰が負けるのか。このことは、誰のこころにもかならず宿る問いである。勝ち負けが あるならば、自分はなんとしても勝ちたい、そのように思うのも、ひとの心の自然な姿である。金 持ちとラザロを比べると、勝ち負けはもう誰の目にもはっきりしている。金持ちは、豊かなものに 囲まれて、何不自由ない生活。人生の成功者。幸福な人。そのように分類することにあまり反対は ないと思う。片やラザロは、何も持たない人である。あるいはすべてを失っているように見える。 健康を失い、食べ物を失い、人からの尊敬を失い、体の自由を失っている。人間としての尊厳さえ も失いつつある。勝ち負けがあるなら、結果かは見えている。しかし、それは人生の表面をなぞる だけの、浅薄な物の見方である。

人生をうわべで見る考えを、キリストはここでひっくり返しておられる。キリストの譬は続く。 金持ちも死に、ラザロも死ぬ。死は平等に訪れる。死という一点で、二人の人生は交差する。ラザ ロは、アブラハムのふところ、つまりは天国に導かれた。一方の金持ちは、陰府という辛い場所で 、炎に焼かれながら苦しみもだえている。どうかラザロに命じて、指先を水にひたして、一滴の水 でも飲ませてほしいと願うが、それも叶えられない。形勢がまったく逆転している。 この形勢逆転は、いったい何なのか。この世で、お金持ちだった人は、次の世では神様から見捨 てられるというのか。この世で受けた境遇と、つぎの世で味わう境遇が、反対になるということな のだろうか。そういうことであれば、勝ち負けなしということにはならない。この世で負けを取れ ば、次の世では勝ち組みになれる。負けるが勝ち、そういう計算になる。

キリストの語りたいことは、そうではないと思う。キリストは数多くの譬を語られたが、登場人 物に名前が付いているのは、このラザロだけ。他は、羊飼いであったり、放蕩息子だったり。名前 はない。ラザロだけが例外である。ラザロとは、「神は助ける」という意味の名前。旧約聖書では 、エレアザルという名前の人がでてくる。そのギリシャ語読みが「ラザロ」である。わざわざこう いう名前を付けたところに、キリストのお考えがある。

ラザロの人生は、神様によって助けられる人生である。神の助けなしには、生きられない。これ が、ラザロという人の生き方そのものである。ラザロは、確かに金持ちの玄関で、その食卓からこ ぼれるものを貰いたいと思っていた。金持ちの家の食べ残しで、かろうじて、飢えをしのいで生き   2   ていた。しかし、ラザロを本当に支えて、守っていたのは、ほかの誰でもない神様だった。神の恵 み、神の温かい手。それに取りすがって生きてきた。そのことをはっきり示すために、キリストは 、ラザロを、このようなみすぼらしい姿に描いて、たとえ話を作られた。神以外に、いかなる助け も当てにしない人。それが、ラザロである。そういう人には、勝ち負けはない。神さまと共に生き る希望、神への憧れ、神への信頼。それがラザロの人生に、素晴らしい輝きを添えている。ほかに は何もない。ただただ神の恵みにすがる。そういうギリギリの信頼の姿を浮き彫りにするために、 キリストは、ラザロという人物を造形された。物語の人物を作り出された。 一方の金持ちは、ラザロがただ神の恵みによってのみ生きようとする、その姿を、まったく見過 ごしてしまった。問題はそこにある。自分には頼むものがある。お金がある。だから、神様の恵み などはいらない。人より優れた健康がある。信仰なんかいりません。権力がある、神の力や助けが どうして必要でしょう。学問がある、知識がある。何か人に誇れるものがあり、自分の中に頼むも のがある。そのために、神の恵み、神の助け、神が私の人生に介入してこられるのを、避けられる と考える。神なしの自由を楽しみ、自分で人生を切り盛りして行こう。私たちも、わずかな力や、健 康や、知識や、たくわえを頼りにして、神の手を払いのけるようなことを、ときにしているのでは ないか。そのとき、私たちも、ラザロの人生を忘れ、神の恵みから目をそらしている。 金持ちは、最後の願いをアブラハムに伝えている。わたしには5人の兄弟がいる。どうかラザロ を兄弟たちに送ってほしい。死人の中から復活した人が行けば、兄弟たちも悔い改めて、人生のあ り方を考え直すでしょう。ところが、アブラハムは言う。おまえの兄弟たちには、モーセと預言者 がある。聖書、とくに旧約聖書のことを「モーセと預言者」と言う。あなたの兄弟の家には、聖書 があるではないか。聖書から、まず神の存在と恵みを学びなさい。人は決して神なしでは生きられ ない。まず聖書からその真実を学びなさい。今日からそれを始めなさい。「人はパンだけで生きる ものではない、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。そのような深い真実な人生を聖書から 学びなさい、学べるはずだ・・・。アブラハムはそのように諭している。これが、今朝の聖書の言 葉の中心である。

ラザロが、死人の中から復活して、兄弟のところを訪問してくれたら、彼らも神様を信じるでし ょう。これは、聖書を信じない人のよく用いる理屈である。つまり、聖書は、聖書だけでは、証拠 が足りない。なにかほかに証拠になるものがあれば、聖書を信用しよう。こうして、ひとは聖書か ら遠ざかる。

今朝の聖書は、この世とあの世が、逆転する、というような話ではない。この世では負け組みに なっていても、天国で勝ち組みに入ればそれでよいではないか。そういう教えでもない。もちろん 、神は信仰に生きる人々に、永遠の命という祝福を備えておられる。金持ちが、言ったように、ラ ザロが死人の中から復活して、兄弟たちに呼びかけてくれたら良いのに。そこにもひとつの真実が ある。死のかなたから聞こえる声、人生の終りから聞こえてくる声に、耳をすます。人生の終わり に思いを致す。そういう深い人生の歩みが、私たちに必要である。永遠から、「今」に向かって呼 びかける真面目な声がある。それは、何よりも聖書の中に満ちている。アブラハムの声であり、ヨ ブの声であり、なによりもイエス・キリストの声である。人生の向こう側から、真剣に呼びかける 声に、無関心であってはならない。

そして、そのために何より必要なことは、いま地上にある間に、神の恵みによって生きる生活へ 、はっきりと方向を転ずることである。つまりは、私たちが一人一人、ラザロになることである 。「神の助けによって生きる」。それがラザロという名前の由来である。私たちも、もう一人のラ ザロになれる。いやどうかして、もう一人のラザロになるべきである。神さまが、私の人生の本当 の助けです。そのように言い表わす人になりたい。

讃美歌第二編の167番は「アメージング・グレイス」。この歌を書いたのは、ジョン・ニュート ンというイギリス人の牧師。1725年~1807年の人。この人はしかし、牧師になる以前は、奴隷売買 の船の船長をしていた。39歳で牧師として出発したが、それまでの人生は荒れすさんだ人生だった 。お金が欲しかった。手っ取り早い商売が、奴隷売買。品物を船でアフリカへ運んで、それに見合 う数の奴隷をアメリカに運ぶ。

「アメージング・グレイス」という番組が以前に放送された。『アメリカ・心の旅「アメージン グ・グレイス」』という番組。わたしは先日、あらためてビデオを見て、感動を新たにした。ジョ ン・ニュートンは克明な日記を残している。「わたしはかつて悪魔に仕えていた。手っ取り早く金 を稼ぐにはこれが良い方法だと思った」。しかし、あるとき船が嵐に見舞われて、思わず「神様、 助けてください」と祈った。神様にも教会にも、まったく背を向けていた私が、どうして神に助け を祈ったのか。それがきっかけで、もう一度、神への信仰を見つめなおすようになった。そして、 牧師として生きる人生へと、再出発した。祈祷会で歌うための歌を、作り始めて、その一つが「ア メージング・グレイス」であった。

「すばらしい主の愛、なんとやさしいその響
    あわれなこの身に 救いを差し伸べてくださる」

「迷う者は いまその愛にいざなわれ、
暗かった目も、いまは真実を映す」

「御業にこころを委ねた そのとき
    尊きかな主のめぐみ、わが身を祝福したまわん」

番組では、アメリカのいろんな人々が、この歌によって人生を支えられ、変えられ、励まされ てきた様子が描かれていた。ニューヨークのハーレムに住む黒人の少年は、合唱団でこの歌を歌う   3   。そして、こう言う。「神様の愛って、浜辺を歩いてて風に当っている感じかな。やさしいそよ風 に吹かれるような感じだと思う」。
アラバマ州の黒人の家族が、91歳のお爺さんの誕生日を祝っている。そして、総勢30人もの家 族・親族が、みんなでこの歌を歌う。一人の姪御さんが、お爺さんに詩をささげる。「91歳の誕生 日、おめでとう。神様のお恵みを祈ると共に、私からの愛を送ります。「人生とは何でしょう。人 生は挑戦、受けて立ちましょう。人生は旅、歩きとおしましょう。人生は約束、果たしましょう。 人生は美しいもの、賛美しましょう。人生はたたかい、打ち克ちましょう。人生は悲しみ、乗りこ えましょう。人生は歌、歌いましょう。人生は愛、愛しましょう」。このような労わりの心の背後 に、アメージング・グレイスという歌の心がある。番組はそう言いたい。
ジョン・ニュートンは、自分が死んだら、墓碑銘に刻んでほしい、と書き残した。「ジョン・ニ ュートン。牧師。かつて罪深き、放蕩者の無神論者であり、奴隷貿易をなりわいとす。われらの主 イエス・キリストの深き哀れみによって救われし男。救われし後は、神のしもべとして、その福音 を伝えるべく生まれ変わりし者」。その墓には、このとおりの言葉が刻まれている。

つまり、こういうことである。ジョン・ニュートンは、もう一人のラザロになった。もう一人の ラザロになることで、人生をやり直した。ある意味では、今日の聖書の二人の人物、あの金持ちと 、そしてラザロ。二人とも、ジョン・ニュートンの中にいる。金持ちのように、無慈悲で神を神と も思わない人生を生きていた人が、のちにラザロのような、神によって助けられる人生へと、生ま れ変わった。神が、この人を変えてくださった。つまり、誰が勝ったとか誰が負けた、そういうこ とは何の問題にもならない。見栄えのよい、外見だけを大切にする軽薄な人間。それは私自身であ る。しかし、そういう私も、神様の助けなしでは生きられないことを心から信じたときに、もう一 人のラザロに変えてもらえる。人間の勝ち負けではない、あえて言うならば、神が私たちに勝って くださる。神がまことの勝利を得てくださる。しかし、神の勝利はどのようにして得られるか。神 は、独り子イエス・キリストを与えるほどの愛によって、私たちに勝利された。イエス・キリスト は、十字架につき、3日目に死人の中から復活することによって、まことの勝利を得られた。キリ ストの十字架。それが私たちを、もう一人のラザロに変える。そこに希望がある。

話を閉じるがキリストの譬では、多くの場合、かならずキリスト自身が、姿を見せてくださる。 今朝の譬話ではどうか。今朝の譬にもキリストは確かに姿を示しておられる。「たとえ死人の中か ら復活する者があっても・・・」と言われている。「死人の中から復活する者」これがキリストで ある。ご自分の復活を、予告しておられる。死者の復活はある。ジョン・ニュートンのように、死 せる魂、生ける屍のような人が、もう一度神に心を向けて、神に助けられて生きる人間になった。 神の恵みに助けられて生きたラザロを、やがて神は、永遠の命の世界へ迎えてくださり、実際に、 アブラハムの懐と言われるような、確かな恵みの中へと連れていってくださる。
復活されたキリストが、私たちの人生の最後の時に、私を離れずに、最後の旅立ちを導いてくだ さる。それは確実なことである。聖書が、はっきりと約束している。そのためにも、私たちは、ま ず何よりも聖書によって、神様の招きを受け、神は私の助け、神の助けなしには生きられない私、 つまり私が一人のラザロだと、はっきりと言い表わす信仰に生きてゆきたい。
お互いが、ひとりのラザロとして、目先の勝ち負けを超えた人生を生きてゆきたい。